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4 僕はどうすれば……
入浴を終えて自室へ戻ったのは、日付が変わる直前だった。
ベッドに座り、缶ビールをあける。伸ばした右手で書棚の端から取り出した一冊のファイルは、大学時代に使っていたものだ。
綴じられている百枚少々の古びた原稿用紙には、一ページ目からぎっしりと黒い文字がひしめいているが、かつての自分が綴っていたその文章は未完成のままで途切れていた。
──誰の目も見ないばかりか、
びく、と心臓が鳴ったのは、安西さんの声が耳の奥に返ったせいだ。
──自分自身の心さえも直視する事を怖れている。
認めたくはないが、言い当てられている。
優れた洞察力を持つあの人は、一体何者なのだろう。
──本当に、面白い。
そんな風に僕をからかって何が楽しいのか。不快だし、意味が分からない。
──悧羽。
鋭く名を呼ばれた。
父も兄も持たぬ僕が知らずにいた、若い男の明瞭な声。
それはとても深く、鮮烈な響きを伴って僕の心の中心を貫いた。
「安西清忠?」
何気なく宿帳に書かれた名を思い出し、ふと引っかかるものを感じた。どこかで見聞きした事があった気がするような、しないような、釈然としない妙な既視感が脳内で回転し続ける。
「安西、清……」
指の間から逃げた原稿用紙が1枚、音もなくもとの束へと戻っていった。
アンザイ、キヨ……──。
……──。
……──。
「しまった!」
目を開けた瞬間、思わず叫んだ。
いつの間にか、僕はシーツに倒れ込んで眠っていたらしい。閉じられたファイルが、枕元で静かに僕の覚醒を待っていた。
「……あぁ……」
翌朝、半分程の中身が残った缶を見つけて肩を落とす僕を、窓辺で歌う鳥だけが見ていた。
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