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「悧羽ちゃぁぁんっ」
目に涙をいっぱいに浮かべた愛未ちゃんが食堂へ駆け込んできたのは、作り終えた朝食を母と分担して客室へ運ぼうとしていた時だ。何事かと顔をあげた僕へ、彼女は幼い腕を懸命に伸ばすとうさぎのぬいぐるみを差し出した。
「モモちゃんの耳が取れそうなの」
「本当だ。可哀想に」
受け取ってみると確かにうさぎの右耳は千切れており、綿がはみだしているのが判った。どこかに引っかけたのだろうか。
痛そうだな、と思った。
「お忙しい時間にすみません。お裁縫道具を貸していただけますか」
遅れてきたお母さんが申し訳なさそうに言って、娘の肩に手を乗せた。
「あぁ、大丈夫です。配膳が済んだら僕が縫っておきますから、真山様は冷めないうちにお食事を召し上がって下さい」
「直せるの、悧羽ちゃん?」
「大丈夫。食器を下げる時にお返し出来ますよ。安心して待っていて下さいね」
僕は小さく笑み、愛未ちゃんに頷き返す。
お客さんの困りごとを解決するのも、従業員の職務の一環だ。それでなくても年に一度、数日程度しか会えない僕を慕ってくれる愛未ちゃんは香純よりも小さくて可愛いもうひとりの妹のような存在だ。泣き顔を笑顔に変えてあげられるのならば、些細な仕事がひとつ増えるくらい大した苦労ではない。
客室へ戻る彼女らを見送り、僕は安西さんの部屋へと向かった。彼は散歩に出かけたり食堂で老人たちの会話に耳を傾けたりと、日々のんびりと過ごしているようだ。
来訪の日から数日が経過したが、一向に帰ると言い出す気配はない。職業に関する疑問は解決していないが、それを詮索せずにおくのもまた、僕の勤めのひとつに他ならなかった。
「今朝も美味そうだな」
座卓に並べた料理を見て、安西さんが感心したように呟いた。料理くらいしか取り柄のない僕でも、こうしてお客さんの役に立てる事は素直に嬉しい。
彼が背を預けた窓の外に広がる空は、澄んだ青色をしている。群れをなして飛んでゆく白い鳥との対比が見事だ。
「五時半頃、庭の掃除をしていただろう。何時に起きているんだ」
「すみません、うるさかったですか」
「そんな事は言ってねぇよ」
起床は季節を問わず毎朝五時だ。それが特別早いとは思わない。深夜に勤務せねばならない職種の人に比べれば、僕の生活などまだまだ恵まれている方だと思う。
「早朝に起き、宿と食堂の内外の清掃、朝食を作り、片づける。風呂と客室の掃除、食材を配達しにくる業者への対応。依頼する程ではない少量のものは買いに行く。食堂の開店準備の後はほぼ一日中食堂で働きつつ、風呂の支度。宿泊客向けの夕食作りと片づけ。各部屋に蒲団を敷き、その他にも客の要望に応じて個別対応」
「凄い。よく判りますね」
安西さんが並べ立てたのは、僕の一日の行動だ。概ねその通りで、観察眼に拍手をしたくなる。でも、それが何だと言うのだろう。
「ひとりで抱え過ぎではないのか」
あぁ、気遣われたのか。
そう思った瞬間、胸の内側が温かくなったような気がした。けれど、僕は天邪鬼で、いつか去ってゆく人の言葉に心底安堵してしまえない。
「いえ、通常の業務です。母には自宅の家事や、祖父の世話もありますし」
実際、僕は住居の掃除も洗濯も母に任せきりだ。祖父の相手さえも食堂でしか出来ていない。
「モモちゃん」
「?」
「廊下を歩いていたら偶然聞こえた」
安西さんが口にしたのは、預かったぬいぐるみの名だ。なぜ知っているのかと首を傾げた僕に、悠然と腕を組んだ彼は嘲笑ともとれそうな歪んだ笑みを浮かべてきた。
「客の個人的な困り事まで解決してやるなんて、一流ホテルのコンシェルジュか」
「見ての通り、民宿の従業員です。コンシェルジュには会った事がありません」
真面目に答えたらつまらなそうに目を伏せられたが、事実なのだから仕方がない。
僕が必要にかられて取得したのは現在のところ、調理師免許と運転免許証だけだ。民宿を正式に継ぐ為にはこれからも様々な事を学び続けていかなければならない。
「心配してくださったのならば、お心遣いありがとうございます。朝食、冷めないうちに召し上がってくださいね」
一礼して客室を辞去する僕に、安西さんはもう何も言わなかった。
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