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5 涙目!?
「ふぅ」
翌朝の食事の仕込みが、一日の最後の仕事だ。炊飯器のタイマーをセットして、僕はエプロンも外さぬまま厨房のシンクに腰を預けた。
自宅は扉の向こう側なのに、忙しく立ち働いているとそれがとても遠くに感じられることがある。壁の時計は二十一時を回り、お客さんは入浴、あるいは部屋でくつろいでいるころだ。母と祖父も、もう自室で自由にしているだろう。
僕は右手で冷蔵庫の取っ手を引き、冷気の満ちる庫内から缶ビールを取り出した。汗で湿った前髪をかき上げた瞬間に、なぜだか酷く咽喉が渇いているのを自覚してしまったのだ。眠りを要求する身体とは裏腹に、自宅への扉を開ける気持ちは湧いてこない。
世の中には何十億もの労働者が存在し、過酷な労働を強いられている子どもたちだって大勢いる。僕如きが疲れたなどと口にするのは贅沢、いや、不遜だ。
──他者に頼らぬ完璧主義者。
褒められたと思っておけばいいのだと言い聞かせても、昼間の母たちの会話が頭から離れず、心は晴れない。
「……あぁっ」
エプロンをカウンターへ投げ捨て、駐車スペースへと出るガラス戸を開けた。
こんなときは散歩に限る。
等間隔に立つ街路灯を頼りに、海沿いの道を行く。黒く染まる夜の海面は、空との境界が曖昧だ。慣れ親しんだ波音さえ、今夜は魔物の寝息に聞こえて気味が悪い。
大学時代の四年間を除き、僕はこの町で生まれ育ってきた。幼少期から家業を継ぐのだろうと思ってきたし、不満や疑問も特にはない。けれど近い将来、祖父や母がいなくなった後にひとりで民宿を切り盛りしている自分の姿を思い描くことは酷く難しかった。
「けほっ」
辿り着いた堤防に腰を下ろし、缶を置く。冷たい液体を飲んでいるのに咽喉を焼かれる気分になるのは、好んで口にしているものではないからだろうか。炭酸も苦味も不得手な僕の手は子供じみて、守るもの全てを掌に収めることができないでいる。
「似合わねぇ小道具だな」
「わぁっ」
突然闇から放たれた言葉に、僕は内心で2センチほど飛び上がった。声の主は深海から浮上してきた海神──ではなく、安西さんだった。よっこらしょ、と祖父みたいに言いながら、彼は無遠慮に僕の隣へ座り込んだ。
「出ていく姿が窓から見えた」
「勤務時間は終了しました。こう見えても、未成年ではありません」
行儀が悪いという点はともかく、年齢的には違法ではない。飲酒を咎めているのなら余計な世話だと言外に滲ませた僕に、彼は何を思ったのか軽く笑んで頷いた。
そして。
「従業員を募集していないか。できれば住み込みで。繁忙期だけの雇用でもいい」
そのまま冗談みたいな台詞を言った。
「そんなこと、僕の一存では」
「聞いてたんだろ、昼間の話」
一転して、不意に重々しくなる口調。自在に高低の変わる声音に、声優か、と訊きたくなった。
「じいさんも女将さんもJKも、おまえが無理をしているのではないかと心配している」
「僕は平気です」
「本気で言っているのか」
「っ!」
氷のような冷えた問いに心底腹が立ち、僕は堤防のコンクリートの上で拳を握った。
「あなたがうちに就職して何になると言うんです? 僕はそういう半端な同情がいちばん嫌いです」
民宿を存続させなければ、家族の生活が成り立たない。けれど、他人を雇う余裕などあろうはずもなく、家族だけでどうにかしていくしかない。選択の余地などないことは彼にだって判っているはずなのに、なぜ、本気かなどと訊くのだろう。
面白そうだから? と数日前の夜に聞いた言葉が耳の奥に蘇り、僕をどうしょうもなく苛立たせる。
「飲めもしねぇ酒で気を紛らわして、身体を壊したら元も子もないだろう」
「そんなことっ」
百も承知だ。
そう返そうとした声は、しかし、咽喉の奥で凍りついて外界へ出ていくことを拒んだ。
夜の底でも強さを失わぬ彼の双眸に僕の身体はすっかり居竦まり、指先から体温を奪われてゆくような不安に陥っていく。
「宿の仕事は好きか? 両手を見つめる癖は、他にやりたいことがある証左ではないのか」
「そ、れは……っ」
自室の本棚に立てたファイルが、ふと脳裏をよぎった。書きつけられた文章は、講義の内容などではない。
「好きかどうかで仕事が選べたら、誰も余計な苦労などしません。僕にはこれしかできることがない。田舎の民宿で悠々自適な夏休みを過ごすあなたに、僕の何が判るんですか」
「本当の鳴実悧羽はどこにいる?」
「意味不明なことを言って、混乱させるのはやめてくださいっ」
「混乱?」
刹那、零れ落ちたのは嘲笑だろうか。
淡い街灯の下で彼の唇が愉悦に歪むのを、僕は目をそらせずに凝視してしまっていた。
「すればいい、もっと」
「ひぁっ」
音もなく伸びてきた掌に一瞬で頬を包み込まれ、心臓がぎくりと波打った。左胸に痛みを感じて刺されたように錯覚したけれど、そんなことは起こるはずもなく、僕は無事に意識を保って堤防に座り続けている。が、意識があることと、正常な思考ができることはイコールではなかった。見開いた目に白い月が映っても、綺麗と思う余裕が全くない。
いつかと同じように、彼の指が僕の顎を強く捉えに来た。もう一方の手で後頭部を包み込まれ、無理に彼の方を向かされる。
「!」
一体何を、と思惟するよりも早く唇が触れ合い、僕は硬直した。夜風に濡れた安西さんのそれはほんのりと冷たく、レモン味のシャーベットを彷彿とさせられる。
「安、西さ……っ」
「苦いだけの酒よりマシだろ」
「んぅっ」
啄むような口づけは優しいのに、僕の肩は細かく震え出す。真夏の夜の野外にいてさえ背すじは凍えるように寒くなり、たちの悪い風邪を引き込んだかのように不安が募った。
「……や、だっ!」
ぬる、とした感触が前触れもなく口中に侵入した直後、僕は堪えきれずに両腕で力いっぱい安西さんを突き飛ばした。
これまでの人生で他者の舌に上顎を舐められたことなど一度もなく、背骨を駆け上がる嫌悪に嘔吐を誘発されるのも初めての経験だった。
「初々しいねぇ」
己の唇を拭った親指の先をちらりと舐めて、安西さんが不遜な笑みを浮かべる。
「身体が冷えきる前に帰って寝ろよ」
目を細めて僕を一瞥すると、安西さんは宿の方向を振り返りながら立ち上がった。
「イイね、涙目」
「──っ!」
心底楽しんでいるような流し目に向かい、変態! と怒鳴る代わりに、僕は手元の缶を渾身の力で投げつけた。
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