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1 おすすめはカツカレー
「あ、れ?」
持ち上げたマグカップの軽さに、僕は思わず目を瞬かせた。ついさっき注いだばかりのスポーツドリンクが、もうなくなっている。無意識に飲み干したのは自分だ。
この暑さではそれも当然かと冷蔵庫からペットボトルを取り出し、再度氷とともにカップに流し込む。
七月も半ばを過ぎ、連日の暑さのせいか箱買いをしているそれは、怖ろしい速さで減ってゆく。
「悧羽! ビールくれ、ビール」
座敷席からカウンター越しの厨房へ、大きく腕を振り回しているのは常連客である貞夫さんだ。
「だめですよ、当店では酒類の提供はしていません」
「固いことを言うなって。俺と悧羽の仲じゃねぇか」
どんな仲ですか、と内心で呟きながら、僕は貞夫さんに麦茶を運び、傍らに座る祖父へと視線を送る。
が、幼馴染みの暴走はそっちで止めておいてと目で訴えても、祖父はただ穏やかに微笑んでいるだけで全く頼りにはなりそうもない。
「悧羽は今年いくつになるんだ」
「二十四です」
「だったらほら、あそこにリルカちゃんの写真集くらい入れてくれよ」
貞夫さんが勢いよく指をさしたのは、カウンター下の本棚だ。そこには、お客さん向けに数種の幼児書と文庫と漫画を入れている。
「だいたい俺みてぇな学のない人間に、ナントカ賞作家? だとかは判んねぇんだぞ」
「でも、リルカちゃんはだめです。グラドルの写真集を置いたら、店の風紀が乱れます」
ナントカ賞、と舌を噛みそうに発音する貞夫さんを、僕は軽く睨んだ。どうせ奥さんや娘さんに色ボケジジイ扱いをされて買ってもらえなかった八つ当たりなのだろうし、僕の好きな作家を侮辱するのも許せない。
僕は本棚を庇うようにカウンターを背にして立ち、大好きな書籍の群れを貞夫さんの目から守った。
それは、安西清臣という作家の小説で、もうワンセット、自室にも揃えているくらいの気に入りだった。
「ビールもだめ、写真集もだめって、おまえさんはそれで人生満足か」
「だめなものはだめです!」
呆れを含む視線にきっぱりと答え、僕はカウンターへと戻りながら伸び過ぎた前髪をかき上げた。
海辺の町の小さな民宿と、併設した食堂。それが僕の職場であり、自宅だ。
学校がようやく夏休みに入るこの時期は、本格的な観光シーズンにはまだ早い。食堂に集まるのは近隣の老人たちと、付近の工事現場で働く人たちがほとんどだ。昼食時にも達していない店内には貞夫さん以外に客はおらず、老人ふたりと僕の母が世間話に花を咲かせているだけだった。
「いらっしゃいませー」
からりと出入口の引き戸が開く音が聞こえた瞬間、母はすばやく立ち上がった。さすがは商売人だ。
僕も食器を洗う手を止めて顔を上げ──刹那、己の目が点になったのを自覚した。
現れたのは、長身の男性だ。
年のころは二十代後半から三十代前半といったところだろうか。明るめの茶髪、白いTシャツに灰色を基調とした迷彩柄のボトム、ベージュのジャケットとスニーカー、黒のサングラス。
田舎の古びた食堂には、おおよそ不釣り合いな装いだ。
「おひとり様ですか。こちらへどうぞ」
母が絶句する老人たちから離れたテーブル席へと男性を案内し、メニューを差し出すのを見て、僕はまた手元の食器に目を落とす。
店の雰囲気に合おうが合うまいが、黙って食事をしてくれるのならば客として持て成すのがこちらの礼儀というものだ。
「おすすめはカツカレーですよ」
視界の隅に、サングラスを外した男性の精悍な顔が映った。母に向けられた視線には、この暑いのにカレーかと言いたそうな色が浮かんでいるようだ。
「若い男性は、お肉好きでしょう?」
「……は」
ぴんと立てた人差し指を天井に向けて言う母がおかしかったのか男性が軽く笑い、同時に僕の緊張も緩やかに解け始めた。
「じゃ、それひとつ。と、水。氷増量で」
「かしこまりました!」
カツカレーひとつ、と厨房へ叫ぶ母の声に僕は冷蔵庫を開け、材料を取り出す。
調理は僕の担当だ。
ジョッキに大量の氷と水を入れてカウンターへ置くと、母が男性のテーブルへと運んでいった。母に礼を言う彼の笑顔は、思いのほか人懐こい。
老人たちにも普段の賑わいが戻り、店内の空気は和やかさに彩られた。
衣を纏った豚肉を投入された油が、じゅわ、と音を立てるのを聞きながら、僕はマグカップに口をつける。客席にはエアコンが効いているが、調理中の厨房は暑い。揚げ物をしていればなおさらだ。柄のないシンプルなTシャツの首元が、汗でしっとりと湿っている。
完成したカツカレーとサラダをトレイに載せ、ゆっくりと厨房を出た。カウンターに出せば母に運んでもらえるが、コンロの前を離れ、客席の冷えた空気を呼吸したかった。
「お待たせいたしました」
小声で呟く僕と頷いた男性を見て、母が苦笑した。
「ごめんなさいねぇ、愛想なしで。小さいころから人見知りをする子でねぇ」
「いや、俺は構わないが」
客商売なのに人見知りか、と彼は内心で呆れただろうか。
そう思いつつ見つめる僕の視野の中央で、思考を読ませぬ無感情な目をしてスプーンを口に運んだ彼の手がふと止まった。トンカツのさっくりとした歯ごたえや、業務用の出来合いのものとは全く違う芳醇な香りの漂うカレーに、双眸がゆっくりと見開かれてゆく。
「美味しいでしょう」
腕組みをする母にも、彼の表情の変化が判ったようだ。自慢げな彼女の口調に、老人たちも深々と頷いている。
「うちのカレーはスパイスから調合している手作りなのよ。絶品でしょ。でしょっ?」
「……母さん」
暴走する母の肩に、僕は右手を置いて諌める。
彼女自身の努力で作り上げたように語ってはいるが、実際にそれをしているのは僕だ。
無愛想で寡黙だが、料理は絶品。
それが、鳴実食堂の利用者に共通している認識である。
母の役割は接客、いつも客席のどこかにいて笑みを振りまいている祖父にいたっては、ゆるキャラ同然の存在だ。
厨房を任され、美味しいものを提供することが、僕の密かな生きがいだった。
「お客さん、ここへは観光で? 今夜の宿はもう決まっているの?」
「あ、いや」
母の問いに、彼が視線を彷徨わせた。
海水浴の季節を迎える海辺の食堂に現れた、ひとりの男性。さほど大きくはないバッグひとつで連れもいないその様子が、長年この町に住み、食堂兼民宿を切り盛りしている女将の目には奇妙に映ったのだろう。
彼は、確固たる目的を持ってこの地を訪れたわけではなさそうだ。ドラマや映画で時折見かける、適当に列車に乗り、適当に降りたという不思議な旅人みたいだ。
「何か訳あり? よかったらうちに泊まっていって。古い民宿だけど」
「あぁ、そいつは助かる。商売上手だな、女将さん」
「そうなの。従業員がジジイと無口な若造だからね、私ががんばらないと」
「へぇ、そりゃ立派なことで」
宿の食事もその若造が作っていますが、と僕は胸中で母に意趣返しをし、彼に対して、ここに滞在してそれを堪能するのも悪くはないですよ、と思惟してみる。
「お言葉に甘えて、しばらく世話になる」
よろしく、と茶色い髪を揺らして僕と母に一礼した彼は、見た目に反して案外礼儀正しい人のようだ。
「お客様一名確保! 悧羽、ご案内して」
「確保って何だっ」
元気な声を上げる母へ、彼が即座に叫び返す。
このふたり、意外とおもしろいコンビではなかろうか。
「捕獲と言われなかっただけマシですよ」
呟く僕に、彼は残りのカレーを頬張りながら大仰に苦笑した。
「本当に古いだけが取り柄の宿ですが」
木造二階建ての民宿鳴実は上下合わせて六つの客室と、僕ら家族の住居で構成されている。男女別の客用トイレは共用。温泉が引かれていることだけが唯一の贅沢ポイントだが、風呂場は「大浴場」という表現には程遠い。
彼を案内したのは一階、八畳の和室だ。
作業をした自分が言うのもおこがましいが、古びてはいても隅々まで掃除が行き届き、清潔感に満たされた快適な部屋である。開け放った窓からは涼風が吹き込み、清浄な空気が心地よく、荒んだ感じは微塵もない。
「安西清忠さんですね。僕は鳴実悧羽といいます。ごゆっくりお寛ぎください」
「なぁ」
食事と入浴時間、非常口や設備の説明を一通り終えて早々に退室しようとした僕を、彼は呼び止めるべきか否かと迷ったようだ。振り返ったら白いTシャツから伸びる腕が空中で止まっていた。
「ご案内、足りませんでしたか」
「……いや、問題ない」
落とされたのは硬質な声だ。
彼と目を合わせようとしない僕を、不快に思っているのだろうか。微妙に逸した視線の先を追うように、彼の双眸も室内を軽く彷徨っている。
悪気があるわけではないけれど、僕は他者との会話が好きではない。実家の民宿を手伝っているだけの、空っぽの自分を見抜かれるのが怖いのだ。
失礼いたします、と機械的に言って客室を出る僕に、結局、彼は何も言わなかった。
問い詰められたとしても、僕は答えるべき言葉を持ってはいない。それさえも見抜かれてしまっているのかもしれないと思うと鋭い眼光を放つ彼の目が酷く怖ろしく、歩調は逃げるように速まってゆく。
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