淡雪

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 ー海の向こうで戦争が始まるー    あの日、呟いたのはあなたでした。  ほんの少し目を細めて、見えることの無い海の彼方を見張るかすように。  遠い眼差しはどこまでも透明で。  柔らかい髪が風にふぅわりとなびいて。  傾きかけた夕陽に照らされた横顔がとても眩しかった。    あの秋の終わり、あなたは優しく僕の手を引いて、海の見える丘の公園に誘ってくれた。  あなたの手は大きくて堅くて、でも温かかった。  僕達は途中で色鮮やかな落ち葉やドングリを拾いながら、少しずつ少しずつなだらかな稜線を登った。  僕たちは丘の上で、小さな日溜まりを見つけて、女中のサヨの持たせてくれたサンドイッチと水筒のお茶をゆっくりゆっくり味わった。  あなたは時折、コホコホと軽い咳をして、 ー大丈夫?帰る?ー  と見上げる僕に何度も小さく笑って首を振った。  その微笑みは淋しげで哀しげで、でも僕はあなたといられることが無性に嬉しかった。  あなたの長い睫毛が微かに震えて僕を見つめて、僕の胸もあの木の梢のように震えていた。  けれど、真っ赤に染まった空がだんだん青ざめて、ちらりと風花があなたの肩に舞い降りて、僕たちの密会は終わってしまった。    あなたは天に手をかざして、落ちてくる淡雪が掌に吸い込まれて消えるさまをじっと見つめて呟いた。 ー儚いものだねー ー人の生とて、さして変わらぬものでもないが......ー    兄さん。  僕の初恋はあなたでした。  あなたはあなたの言葉どおりに雪が深く降り積もる朝に淡雪のように消えて去っていってしまった。  あぁ、なのに......。  あれから幾度も季節は巡ってきたというのに、あなたの後ろ姿は遠くへ遠くへ霞んでいくのに。  春の、夏の、秋の、冬の、思い出ばかりが降り積もり、あなたへの想いはあの故郷の根雪のように僕の胸を埋め尽くしてなお、しんしんと積り、僕は息をするのもままならない。  新雪に零れたあなたの命の雫は庭の寒椿よりもっと紅くて鮮やかで。  でも、そっと交わした口づけは、隠れて初めて触れたあなたの唇は凍土よりも冷たくて。あなたはとうとう僕の腕には戻らなかった。ひとりで遠くに行ってしまった。  僕は母さんにも父さんにも見られたくなくて、仏壇に背を向けて、こっそりひとりで泣きました。  野辺の送りの煙さえあなたに添えるその事が妬ましくて、ギリリとひとり歯噛みをしました。  あぁ、兄さん。  それでも、僕は立派に大人になりました。  十五の春には胸を張って、汽車で故郷を発ちました。  あなたのいない故郷は寒すぎて。  割烹着姿のお母さん達に見送られ、日の丸の旗がさざめく中を、直立不動で敬礼しながら、心はじっとあの丘を見つめていました。  兄さん、もぅ僕もそちらに行っていいですか?  義姉(ねえ)さんと一雄くんなら大丈夫。  田辺の幹夫さんが付いているから。  そう、兄さんの親友だったあの人です。 ーあの人はブルジョワジーでお金持ちなのに、なんであなたは夜学校の先生なんてしているの。何時でも雇ってくれると言っているのにー  そう言って口を尖らせる義姉(ねえ)さんに、あなたはいつも静かに微笑(わら)っていましたね。  あの人は兄さんがいないときでも気軽に家に立ち寄って、奥の間の襖をぴったり閉めて、楽しそうに義姉(ねえ)さんと笑っていた。   本当はあの日も、僕を連れ出したあの秋の日も......。  いえ、この話は止めましょう。  それより...。  ここはひどく寒い。  南の島のはずなのに。  今は夏なはずなのに。  あの故郷の朝より手も足もひどく凍えて、かじかんで......。  でも、大きな両手で包んで温かな息をかけてくれるあなたはいない。  一緒の掻巻きにくるまって、胸元に抱きしめて眠ってくれたあなたはいない。    僕の腹から流れ出る血は黒く澱んで、あの冬のあなたのそれとは大違いだ。  それでも、あなたは僕を迎えに来てくれますか。  あの秋の日のように僕の手を引いて、あの丘を登ってくれますか。  あの日、あなたが言った海の向こうで待つ僕をあなたは見つけてくれますか。  兄さん、あなたは僕の.......。   ー1945年8月15日 日本敗戦        レイテ島陥落ー
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