梅の咲く頃

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梅の咲く頃

母親に連れ出され病院の屋上へ連れて来られた千代子。 「ここから飛び降りれ」 転落防止柵へと母親にずるずると引きづられる千代子。 「母さん、やんた、おっかね、うんか」 「うんかぐね、おめさなんぼ病院のじぇん、かがってるがわがるが、こごがら落ちで死ね」 泣きながら必死に抵抗する千代子。 とうとう千代子を担ぎあげ柵の外へ放ろうとしたそのとき後ろから千代子を奪い返した者がいた。 真冬の寒空に非常階段から屋上へ登るふたりをたまたま見た看護婦が不審に思いあとを追ってきたのだった。 「離せ、このがきのおかげでなんぼ、じぇんこあっても足りね、おめさなわがらねべ」 母親は激しい口調で看護婦から千代子を引き離そうとした。 やがて騒ぎを聞きつけた他の看護婦ら数人も屋上へ駆けつけていた。 「誰か警察呼んで」 一番若い看護婦が110番しに階下へ駆け下りた。 「せば、おめ死ね。母親の資格なのね」 千代子を抱きかかえたいつも優しい笑顔の看護婦が鋭い目付きで母親に言った。 「なしておら死なねばならねな、このがきみんな悪りいんだべった」 開き直る母親を婦長がびんたした。頬を殴られよろめいた母親はすぐ婦長に飛びかかりその髪をナースキャップごとむしるように引っ張った。婦長も負けじと母親の髪を掴んでふたりはコンクリートの上をごろごろと転がった。 千代子はその様を全てみてまた泣いた。 やがて警察が数人ぞろぞろとやってきて千代子を抱いた看護婦から事の顛末を簡単に聞き取ると 「殺人未遂の現行犯だな。14時25分、おめどご逮捕する」 そうして警察に連行される母親は激しく抵抗し口汚く警察官を看護婦をそして自分が腹を痛めて産んだはずの千代子にまで罵声を浴びせながら遠ざかって行った。 「ちよちゃんもう大丈夫。こわかったね」 ただ泣きじゃくる千代子。とにかく病室へ戻り温め医師の診断を受けた。 「お父さんの方へ連絡は」 医師が尋ねると 「はあ、会社へ連絡したのですが忙しくてそんなことにはかまっておれないと」 表情を曇らせ婦長は言った。 「そんなこと、か」 医師は言葉を詰まらせた。 千代子はおたふく風邪を拗らせ脳膜炎をおこしもう三ヶ月も入院している。意識不明で運び込まれ最近ようやく意識を取り戻したのだ。まだその治療薬は大変高価でその薬品を使えずに命を落とす者すらあったが、幸い千代子の父親はいいところへ勤め役職も上の方であったためその高価な薬品を使うことができたのだし、ずっと個室の病室代も支払えていたのだ。それにしてもたしかに裕福な家庭であっても生活を逼迫する工合であったのだろう。 この母親は、いえ父親も普段からあまり千代子を可愛がるといった風でもなくむしろ投薬をやめて死なせてほしいと持ちかけられたこともあった。父親は滅多に見舞いにも現れず、母親はほとんど病院にはおらず駅前のパチンコ屋でよく目撃されていた。 看護婦の間では可哀想な子と話し合うことがよくあった。 そうしている間に父親が病室へやって来た。 入って来るなりえらい剣幕で捲し立てた。 「めんどうなことをしてくれたものだ」 そう誰に言うでもなく大きな声でそう言うと千代子には目もくれず婦長に向かい 「俺は仕事で忙しいのだから、こういうことのないように見ているのもあんたらの仕事だろう、おかげで俺はこれから警察にも行かなければならないのだぞ」 周りにいた医師も看護婦もとんだお門違いだと思った。 「お父さん、あなたはちよちゃんが可愛くないのですか」 さながら般若のような形相で婦長が怒鳴った。 「こんな金ばかりかかるもの、どこが可愛いものか、誰かにくれてやる、こんなもの」 言い終わるか終わらぬうちに婦長の手は父親の右頬を激しくぶった。 「おい、警察をよべ、暴力だ」 父親へと一歩前へ出た医師が今度は思い切り拳で殴りつけた。 「貴様は人間のクズだ、貴様もあの母親も」 殴られ倒れ込んだ父親はもうそれ以上何も話さずばつが悪そうに病室を後にした。 「たしか入院のとき保証人がちよちゃんの叔父になっていたように思います。すぐ連絡をとってみます」 次の朝叔父が千代子の元へやって来た。一晩中吹雪の中を自動車を運転し駆けつけてくれた。 「わあい、千代子、おっかねがったな。あど、なんも心配いらねがらな。早く良くなっておらえさあべし。ちよがよくなるまで和歌子がずっといるすけえに、なんにも、ぺんこべえりも心配はねえすけえな。ほに、わがらねえのがどうだ。ごめんせえよ千代子」 叔父は千代子を抱きしめ何度も何度も頭をなで 「むごい、ほんにむごくてわがらね。ごめんせえよ千代子な、むごいじぇえ」 そう繰り返し涙を流していた。 日に日に元気になり前には見せなかった笑顔をみせるようになった千代子。看護婦らはみな安堵した。 やがて母親は起訴され、父親は親権を手放し千代子が正式に叔父の養子となる頃ちょうど梅が咲きはじめ、千代子の退院も間近となった。 親子の縁など蜘蛛の糸よりか弱いものかもしれない。
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