冬川

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冬川

行き交う人は一様に美しい晴れ着姿で友人らと談笑を交わし、これから成人式の会場へと向かうのであろう。 私は大型商業施設の清掃のアルバイトへ向かい、なるべくその人たちとは目など合わせぬよう下を向き早足に通り過ぎた。 私も今日この日、本来であればあのような美しい晴れ着で成人式に参加するはずであった。誰を恨むでもない。たまたま生まれた家庭が裕福でなかっただけのことである。 「あ、幸子」 すれ違いざまに晴れ着姿の数人のグルウプのひとりが声をかけた。中学の同級生のグルウプであった。当時私を虐めていた連中であった。 「貧乏人の幸子だ、貧乏、貧乏」 連中は口を揃えて貧乏と連呼し手を叩いて笑っていた。 私は無視をして下を向いたまま通り過ぎようとしたのだが、ひとりが私の腕を掴んだ。 「その汚い格好でまさか成人式に来る気」 私は腕を振りほどき走り出した。背中に連中の笑い声や罵声を受けながら晴れ着や紋付袴の人波を縫い走った。いつしか涙が溢れ出していた。 私は貧しい家庭に生まれた。気づいたのは小学校にあがり文房具が不揃いであったり、洋服が全て誰かのおさがりであったり、遠足などの弁当が貧相であることを同級生にからかわれ、虐められるようになり初めて自分は貧乏人の子なのだと知らしめられた。やがて持ち物や服に関係なく、無意味に殴られ、蹴られ、貧乏、黴菌などとあだ名をつけられた。それは中学を卒業するまで続いた。誰も友達もなく、ずっとひとりぼっちの九年間を送った。先生もみな私を無視し勘定には入れなかった。修学旅行は欠席した。私のために両親は無理をしてお金を作ってくれたのだが、ただ虐められに行くだけの日常と同じだと思い欠席した。 母はそのときも泣いていた。 「ごめんね、ごめんね」 母はいつもそう繰り返し、すでに自分より背の高くなった私を抱きしめ泣いた。 父もなんとも苦々しい表情で黙ってしまい 「幸子、絶対、人生にはいいときがくる。そう信じて俺たちは、幸せのさちこって名前をつけたんだ」 ただそう繰り返すだけであった。 自ずと高校へは進学せずいくつもアルバイトをして家計を助けた。そもそも高校でも虐められるだろうことは言うまでもない。急に裕福な家庭にでもなったのなら別だが。 なぜ困窮する家庭であったかを知ったのはつい最近であった。 父の経営する小さな部品工場が倒産したためだと知った。不景気の煽りは弱いところを容赦なく襲う。私が間もなく産まれるという頃のことらしい。親戚のひとりが意地悪くそれを私に教えた。会う度に金の無心ばかりで縁を切ったとも。 私は学歴もなく年々不況になるこの社会ではとても身入りの良い仕事などにありつけるはずもなかった。 やがて私は気がつけば清掃のアルバイト先の大型商業施設を通り過ぎ、幼い頃よく両親とおにぎりを持ち魚釣りに出かけた大きな川へ来ていた。 貧しくとも僅かにある楽しい思い出である。裕福だの貧乏だの、何も知らず両親と鮒を釣りとても楽しかったあの日。 一月の風は冷たく澄んだ川面はいっそう冷たく光っていた。 もう疲れた。生きることの辛さに疲れたのだ。 あの楽しい思い出の川の中にはもしかしたら幸せがあるのかもしれない。 流れの早い辺りへと、少しずつ川辺に近づいた。 すうっと不幸がひとつずつ体から抜ける思いがした。 きっと幸せがあるに違いない。 この川の中に。 きっと。
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