六文銭

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六文銭

霧に覆われた薄暗い川面に浮かぶ木の小舟に船頭とふたり。 「お嬢ちゃん渡し賃は六文ですぜ」 竹笠によれよれの着物を着た船頭はしきりに手拭いで首や顔などを拭きながら言った。 私はあちこち探してみたがお金のようなものが見当たらない。 いえ、いつの間にこんな白装束を着ていたものか。全く覚えがなかったのです。 「私、お金を持っていないようで」 船縁(ふなべり)に腰掛けた船頭は煙管を取り出し慣れた手つきで刻み煙草を詰め火をつけた。 「なんだ、渡し賃の六文銭も持たずにここまで来たんですかい」 溜息混じりに煙を吐き出した船頭。 「あの、私はもしかして」 船縁を、カンッと煙管を叩き燃えかすの灰を川に落として船頭は言った。 「そう、あっちの岸へ渡るんでさあ」 いつの間に私は死んだのだ。全くもって身に覚えがない。 「どうして私は」 船頭はゆっくり腰を上げた。 「さあね、そこまであっしは知りやせん」 「向こうに渡ったらどうなるのです」 とにかくあちらの世に行くらしいことは分かったのだがそこは恐ろしい地獄なのか天国なのか今はそれが重要であり、叶うならばなんとかしてここから逃げ出す方法はないか思案を巡らした。 「さあ、とんと見当がつきやせんね、あっしはただこっちとあっちの岸を行き来してるだけでやんす」 「でも私は渡し賃を持っておらないのですが」 船頭は竹笠の中に手を入れ頭を掻いた。 「こんな人はじめてでやんすよ、ずいぶん長いこと渡しをやってんですけどね」 呆れたようにまた船頭は溜息をついた。 「あの、もしよければ取りに戻ってもよいでしょうか」 竹笠をずり上げたいそう驚いた表情の船頭。真っ黒に日焼けし目がひっこみげっそりと痩せこけた頬。まるで骸骨のような人相であった。 「前代未聞ですぜ」 「すぐ戻ってまいりますから」 船頭は頭をかしげて考え込んだ。 「六文銭持ってねえんですから渡すわけにもいきやせんしねえ、すぐ戻ってきてくださいよ、きっとですよ」 「わかりました。では戻る道を教えていただきたいのですが」 船頭はまた煙管に火をつけ船縁に腰をおろした。 「適当に歩いていけばすとんと落ちまさあな」 「適当にですか」 船頭は煙を吐き出しながら頷いた。 もしかしたらこのまま逃げおうせることができる。私は思った。 「では、すぐ戻ります」 そう言って私は舟から岸へあがりそろりそろり歩きはしめた。 「ああ、お嬢ちゃん」 不意に船頭が呼び止めた。 顔だけ振り向いた私に船頭は言った。 「あっちに戻ったって地獄も地獄、大地獄でやんすよ、今より酷い」 あまりよく分からぬまま私は歩を進めた。 突然すとんと落ちた。船頭の言った通りであった。あまりの落ちる速さに私は気を失った。 やがて全身の激痛で意識を取り戻した。身体中全てが痛い。痛くないところがないほどの激痛に見舞われた。これはなんの痛みなのだ。目を開くことすらできない。 そのときかすかに聞こえた。 「息を吹き返したぞ」 何やら大変に慌ただしく人が大勢いるのが分かったが激痛に声も出せない。これが船頭の言っていたことなのだろうか。 「しっかりしろ」 誰かが耳元で叫んでいる。 救急車の音が聞こえる。 「あそこから飛び降りて生きてるなんて信じられない」 野次馬の声のひとつが耳に入った。そうだ私は飛び降りたのだ、あのマンションから。 相変わらず私に、しっかりしろと声をかけ続ける人が何人かいる。 激しい痛みは増すばかり。これでは船頭の言う通りこちらの方が地獄である。 私は最後の力をふり絞り声を出した。 「どうか私に六文銭を」
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