木曜日の幽霊

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木曜日の幽霊

何度も天井の灯りにグラスを透かしては何を喋るでもなくただ手持ち無沙汰のようにグラスを磨く髭のマスターと向かい合わせのカウンター席。客は私ひとり。木曜日の宵はこんなものだろう。 店には静かな音楽が流れていた。ジャズなのかクラシックなのか私にはよくわからないのだが、とにかく眠くなるようなピアノや何かの音楽だ。 カランコロンカラン そっと木製のドアが開いた。 「いらっし」 グラスから目を上げ入り口に目をやったマスターの言葉がとまった。 私もドアの方を振り返り一瞬ぎょっとした。 乱れ放題に乱れた髪の白いワンピースの女性が立っていた。 「あの、ひとりなのですが」 消え入るような声でその女性はうつむき加減で言った。 マスターは私の顔色をうかがった。私も正直、気味が悪かったが特別嫌な顔もしていなかったのだろうマスターはどうぞと声をかけた。 会釈をしてその女性はガラガラのカウンターのわざわざ私の左隣に腰をおろした。 私は口に含んだスコッチを急にごくりとやったものだから大変に噎せた。 どうして隣に座るかね。マスターに目配せをした。 マスターは優しく声をかけた。 「お客さん、たくさんあいてるけれどそこにお座りで」 女は黙ってうなづいただけだった。 髪は乱れてはいるが不潔とかそういう工合ではなく、さも嵐の中を歩いてきたような乱れ工合であった。 そのみだれ髪から少しだけ見える頬は青白く、顔面蒼白などという言葉では足らぬほどの青白さで、やはり不気味な感じがした。 女はただ俯いていたので私は彼女を観察した。 肩には茶色い革製のバッグ。白いワンピースも特段汚れているようすもない。 しかしおかしなことに今は11月。木枯らしの吹く寒さの中をこの薄っぺらいワンピースだけでここへ来たのか。上着、コートの類いも持っていない様子であった。 靴も白いハイヒールでよく磨かれているようではあったが店の薄暗さのせいかどうも素足のように見受けられた。 まさか見ず知らずの女性に履いているのか聞くのも失礼、まして失敬と声をかけさわってみるわけにもいかず。 「何をお召し上がりになりますか」 「何か温かいものを」 「温かい、ものですか」 マスターは髭をなぜながら困った顔をしていた。 「あいにく日本酒などは置いていないもので」 「なんでもかまいません温かいものを」 マスターは髭から指を離すとパチンと鳴らしてみせた。 「ミルクはどうです、牛乳」 そうか、カルーアミルクの牛乳があったか。 「どうかそれを」 あいかわらず下をむいたままであった。 マスターは手際よくミルクを温めながら尋ねた。 「よくいらっしゃいました。でもなぜうちへいらしたのです」 女は少し間を置いて徐に発した言葉は 「死ぬ前に彼とここへ一度寄ったことがあったものですから」 私もマスターも全ての動きがとまってしまった。 マスターはとっさに笑ってそう答えた。 「ご冗談でしょう。死んだらここにはおられない」 女は下をむいたままとつとつと話した。 「いえ、死ぬ数日前に彼と来ました」 何か悪い冗談だろう。私は少し寒気すら感じた。 「そのときも私はお酒を飲めないので温かいミルクをいただきました」 マスターは、はっとした。 たしかにいた。 お酒を飲めないのに男性に連れられここへ来てミルクを温めて飲ませた記憶があった。 そもそも常連客なり一見さんなりそんなに多くは訪れない貧乏バーだと自負する小さなカウンターバーだ。 「あのときの」 「はい、赤いコートで後ろに髪をしばっていました」 「ああ、覚えてる。たしかに。しかし今日はずいぶん様子が違う」 「はい、私は先日死んだものですから」 ますます真剣味を帯びてきたように思えた。 私はグラスの酒も忘れふたりらのやり取りをうかがっていた。 「マンシーニがよくかかっていて心地よいお店だったのでまた来てみたいと」 温めたミルクをマグカップに注ぎ彼女の前へ置くマスター。 「あの日もこれと同じマグカップでした」 「うちにはグラスは売るほどあるがマグカップはそれぎりなものでね」 とうとう私も黙ってはおれなくなりふたりの話しに割って入った。 「あの、本当に死んだのですか。嘘でしょう」 女は下をむいたまま首を横にブンブンふった。 「私は死にました。」 「しかし現にここにいるじゃないですか」 「でも私はもうこの世のものではないんです」 キチガイなのか本当に死人なのか、狸にでもばかされているのか。 マスターはもう怪訝そうな顔をしていなかった。 なぜだかそのときはわからなかったが。 「マンシーニをおかけしましょうか」 女は頷いた。 「ひまわりを」 マスターはレコードの棚からさくさくとそのマンシーニを見つけ今までのレコードと変えて針をおとした。 静かなピアノの前奏からストリングスがメインテーマを奏でる。 訳ありの自称幽霊さんとマンシーニのひまわり。 その頃には気味の悪さよりも何か訳のある自称幽霊さんなのだろうと思った。 「誰かとお話ししたくて。すみません」 どうやら彼女は私に言ったようだった。 「聞かせてもらえませんか」 マスターは店の外にCLOSEの看板をさげてきたようだ。 「私、生きている頃は本当に仕合わせでした」 マスターもグラスに大きな氷をガチャンといれウイスキーをトクトクと注ぎ軽く乾杯の真似をして尋ねた。 「突然亡くなったのは事故かなにかで」 女はまたうつむきただ首を横にブンブンふった。 「私は自分から死んだんです」 「では自殺ですか」 女はこくりと頷いた。 私はとうとうカウンターの下へ頭をつっこみその幽霊だと言ってはばからない女の足首をぎゅっと手でつかんだ。 「ひっ」 女は甲高い声を上げ一瞬、身をひいてみせたがすぐに落ち着き払ったように静かに下を向いていた。 「マスター、足、足がある」 マスターは小首をかしげた。 「あんた足があるじゃないか。幽霊なんてものは足のないものと相場が決まってる」 私は笑いながらも、ひとつ気になったのはこの女の肌に触れたのだが人間の体温というか温もりを全く感ぜられなかったのだ。 「まだあの世とこの世を行き来していますし、おばけに足がないのはおとぎ話や漫画の話しです」 女は温かいミルクの入ったマグカップでさも手を温めでもするように両の手で包みながらそう言った。 マスターは、うーんと唸っただけでまた店の天井を見るでもなく目をやり髭をなぜていた。 「ご迷惑様でした」 女が立ち上がろうとしたところを私は今度は女の腕を掴み引き止めた。 やはり人のぬくもりがない。本当に死人なのかもしれない。 「もう一杯、温かいのをやってからになさいませんか」 マスターもミルクを火にかけながら引き止めた。 「幽霊にも門限なんてものがあるのかい」 私は少しふざけた質問をしてみた。 「ありませんよ。帰るところもないし」 マスターは空のマグカップを念入りに洗い綺麗に拭きあげ新しい温かなミルクを注ぎ彼女の前へ差し出した。 「失礼かもしれませんが、幽霊でも飲んだり食べたりできるのですね」 言われてみればたしかにそうだと思った。飲み食いする幽霊なんていらのだろうか。いや、今までそんなことを考えたこともなかったからとても興味があった。 「今はできます。まだ」 そこで私は話しを遮った 「あの世とこの世を行き来してるんでしょ」 「はい」 マスターはまた新しい氷とウイスキーをグラスに注ぎながら聞いた。 「もしよければ何があったか話して聞かせてくれませんか」 私も同じことを考えていた。野次馬根性なのか、なんだか放っておけないのか自分でもよくわからないのは酔いが回ったせいだけではないようだった。 「この間の彼」 「ああ、あのときのお連れの方。一見さんのね」 「はい」 ここからは女幽霊とマスターの問答をグラス片手に拝聴した。 「あの方と何か」 「結婚の約束を」 「それは目出度い、なのにどうして」 「彼には奥さんも子供さんもいたんです」 にわかに私も身をよじり、やはり野次馬根性の方らしい。 「知らなかったのですか」 「はい。独身と聞かされていましたから」 ここで私が口を挟んだのは 「じゃあ騙されたんだね」 女はこくりと頷いた。 マスターは眉をひそめてますます髭をなぜ回した。 「あのあと奥さんという人が会社へ来て私を訴えると」 ここで女は泣きだした。幽霊も泣くものなのかと感心した。 「会社へまで押しかけられ、人目が悪く会社へも退職願を出しました。慰謝料なども払えもしませんから」 「それで」 「電車へ」 髭をなぜるマスターの手がとまった。 私もまたスコッチがおかしなところへごくりといきむせ返った。 たしかに数日前の帰宅の混雑時に人身事故で電車が止まった。まさかそのときの、そう思った。 「嘘ならありがたい話しだ」 マスターはぐいっとグラスの酒をいっきに飲み干した。 「本当にごめんなさい。こんな話しをしてしまって」 「いや、それは私が聞いたことですからお気になさらなくてけっこう」 「もう行きます」 女は今度こそ立ち上がった。やはりちゃんと足があり、最初に見た通り白いハイヒールをしっかり履いていた。 「お金」 幽霊の言葉をマスターが遮った。 「お代はけっこう。どうです、またいらっしゃいませんか」 「ご迷惑でなければ。まだ」 「うん、行き来してるんだよね」 私も合いの手を入れた。 「あの世へ行ったきりになるまでは、また木曜日にお邪魔します」 「木曜日ですか。何か理由でも」 「毎週木曜日は彼は子供さんの習い事のお迎えをしていたそうでいつも私はひとりでしたから。飛び込んだのも先日、木曜日でしたから」 私は彼女を木曜日の幽霊と名付けた。私もまた来週木曜日には必ず来ようと思った。 気がつくと女は消えていた。店のドアが開いた様子もなかったが。 入ってくるときはちゃんとドアを開けてきたのになぜだろう。 「驚かせないようにでしょう」 「マスター信じるかい」 マスターは新しい酒を私にも注ぎグラスをカチンと合わせて言った 木曜日の幽霊に乾杯
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