貧の瀬

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貧の瀬

妻と幼い娘はたまごがたったひとつだけの蕎麦を、なんのくったくもない笑顔で頬張っていた。 大晦日のその日までも私は朝からあちこちと金策に、いえ正直に言ってしまえば知人らに金の無心に走り回っていたのです。貧には年の瀬も新年もまるきり無縁なのです。昨日までは掛け取りが何度も扉をどんどんと叩き、払え、払えと隣近所どころか町内中に響くほど、聞こえよがしに大声を出していたのですが、さすがに大晦日まではやって来なかったのは幸いであった。それでも日が暮れるまでは、いつ掛け取りたちがやって来るやもしれず生きた心地がしなかったのです。毎年のことでも慣れることなどなく身が縮まるのです。どうにか越せた。いや、越せちゃいないよ。借金の山だ。この借金が一生付いて回るのかと思うとため息より他にでるものはなく、それは私よりも妻が一番気にかけているであろう。こんな苦労をさせるために駆け落ちまでして一緒になったわけではないのだ。いつも済まなく思いながら毎日をただこなすように生きているのです。 大晦日の晩ご飯は娘の好物のライスカレー。いつもは竹輪だが今夜は肉が入った。昼間いくらか貸してくれた人があったものですから。肉は全部娘の皿へ。 「こんなにお肉、全部食べていいの」 ああいいんだ、お父さんはあまり肉が好きじゃないんだよとうそぶいてみる。突然横から私のカレーに肉がそっと放り込まれる。目に涙をためた妻が自分のライスカレーの肉を私のライスカレーにわけてよこしたのだ。泣きたくなるのを堪えてライスカレーをかき込む。娘の笑顔だけがせめてもの救いだ。この娘のためにも、いえこれほどの貧にすら堪えてくれる妻にもなんとかせねばと思うのですが世の中というのはそんな甘いものではない。ふと私は太宰治の猿塚という物語を思い出していた。そしてなぜだか、とうとうここまでかとふと思ったのでした。 晩ご飯も済み、呑気に流行歌が流れる歌番組にも飽きてきた頃妻は台所に立ち蕎麦を茹でてきた。 「わあ、たまごが入ってる」 娘はまた喜んだ。いつもはかけそばしか食べさせてやれないものですからお恥ずかしいのですが。「ねえ、美味しいね」と娘に相槌をうつ妻の横顔はなぜか疲れたふうもなくまるで出会った十代の頃のように輝いてみえた。本当に済まない。心からそう思い私はちゃぶ台から立ち上がった。 「お父さん、どうしたの」妻が怪訝そうな表情を見せた。 「いや、ちょっと御手洗にね」 先程までの妻の笑顔は消え、楽しそうな娘のはしゃぐ声だけが響く居間を後にした。 少しばかり丈夫そうなバンド(ベルト)を手に私は大晦日の夜の外へ出た。雪がちらつき凍えるような寒さの夜でした。私は前から目星をつけていた、それとも引き寄せられる何かがあったのだろうか枝ぶりの良いあの木の下に立っていた。疲れたのだ。何もかも。妻と幼い娘にはもっと辛いことになるとはもう考えられなかった。楽になりたかったのです。 やがて除夜の鐘が遠くから聞こえてきました。
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