白痴

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白痴

よく言えばまるで何も知らぬ子供のような純粋さ、彼女はただひとつそれしか持ち合わせてはおらなかったのです。 そもそも人間の普通とはなんなのだ。私はそれがわかったためしがない。他人の目から見たらこの私も普通とは違うおかしな輩にうつっているかもしれないが、私はいたって普通なつもりでいる。人間というのは自分を高く評価しがちな生き物である。音痴ほど自分は歌が上手だと思っているらしいし、子供の落書きのような絵を描いて存外うまく描けたものだと自画自賛したりするものであり、他人を評価するときもその相手がお互いに好意的であれば多少の奇行や言動も見て見ぬふりをしたり心にもないくせに賛同してみせたりするものだ。しかし敵意や悪意のある人間に対しては真っ当な行動や発言すら否定し、あれは頭がどうかしているに違いないと辺りにふれて歩くものでもあるのだから、一体何が普通でどこからが異常なのかは本当は誰も知らないに違いない。だから私がその女を初めてみたときには、心のどこかに好意的な意識があったのだろうと省察している。 かんかん照りの田舎道を私は汗を拭き拭き歩いていた。かんかん照りのお日様とアスファルトの照り返しでとっくに人間の体温を遥かに越える暑さの昼下がり、青いチェック柄のノースリーブのワンピースを着た黒髪の少女のようでもあり大人にも見える女がこちらに背を向ける格好でしゃがみこんで地面を指でなにがしかしている様子であった。次第に近づくが女は何かに夢中で背後の私の気配にはまるきり気がついていないふうであった。 「何をしておるのだね」 私の声にたいそう驚いたようで無言で勢いよく立ち上がりこちらに向き直った女の顔はやはり少女のようでもあり二十歳をすぎた大人の女のようでもあったが、とても美しく、しかし忙しく黒目があちこちをぐるぐると動きさっぱりこちらと目線が合うことがなく、自分の手や指をあれこれ弄ぶように動かしそれに合わせ一歩か二歩くらいを右に左に前に後ろにと動き回り全く落ち着きがないのだ。これはちょっと頭のおかしなやつなんだろうと直ぐに気がついたのだが、やはりおかしいのか普通なのか私には判断しかねていた。 「石が焼けていたの」 相変わらずその辺をうろうろと歩き回りながら女は口を開いた。 「石が、やけているのか」 私は女の目をみて言葉を返したのだが女の目線もうろうろ歩きもおさまらず時折、何かを思い出したように笑ったりする女は日にも焼けておらず透き通るような白い肌に美しい黒髪をボブヘアーにした、やはり二十歳前後の女のように見受けられたが、やはり思い出し笑いをし独り言をぶつぶつ言うなど普通ではないだろうという気持ちで私は女の動きをずっと目で追っていた。 「暑くないか」 私が尋ねると女はぶんぶんと首を左右にふったのだがその美しく整えられていると思った黒髪からはふけが多数に舞い大袈裟だが、まるで真夏に細雪でも降っているかのようであった。私はそれまで女と少し間合いをとっていたのだが一、二歩近づき簡単にその白い肩に手が届くまで寄ったが女は後ずさりするでもなく、ようやくうろうろ歩きはおさまり初めてじっとこちらの目を見つめていた。それまでは部屋に入り込んだ蚊や蝿でもあちこちを飛び回るような目線だったものが一転、じっと私の目を見ている。 「毎日、忙しくて困るの」 唐突にそう女は言うと私から目線をそらしまたうろうろと歩き回りはじめた。 「仕事かね」 私の返答には耳も貸さずまた女はにやにやとしながら何か独り言を言っていた。 ふと見渡すと飲み物の自動販売機をみつけたので私は女の分とふたつ炭酸飲料を買った。私が自動販売機にわずかの距離を歩いて行く間にいなくなってしまうかもしれないとも思い一度振り返るとじっと直立不動で私を見ていた。自動販売機から炭酸飲料をふたつ取り出し振り返るとまだじっと私を見つめていた。私は先程よりもさらに間合いを詰め女に炭酸飲料を差し出したのだが女はまたぶんぶんと首を左右に激しくふった。その度にまた髪の毛のふけが宙に舞った。汗のにおいか、それともあまり風呂にも入らぬのかすえたようなにおいがした。私とてこの暑さで汗だくであり嫌な臭いがしているかもしれずわざわざそれを咎める気持ちなどさらさらなかったのだが。 「お母さんに叱られる」 まるで子供のように、私が差し出した炭酸飲料を女は拒否した。 「お母さんにかい」 私が尋ねると女は、またにやにやと笑いながら聞こえないような声で独り言を言ってうろうろ歩き回った。 「暑いから特別だ、大丈夫叱られないから」 無理に女の手に炭酸飲料を渡そうと突き出した手が、女がうろうろと動き回るものだから思いがけずにその胸に私の手の甲が当たったのだが、僅かに膨らみかけた、やはり少女のような乳房の感触でもあり柔らかさには大人の女をも感ぜられた。うっかり胸にふれてしまったことを詫びようとしたが女は全く気にかけるふうでもなく相変わらずにやにやと独り言を言いながらぐるぐる同じ場所を回っていた。これでも普通なのか。いや、普通かどうかは私ごときが判断すべきではなかった。これで存外、女は普通なのかもしれないではないか。何事も自分の物差しで見てはならないものだ。急に女は動きを止めた。 「箱を折ったり配達に行くから毎日忙しい」 「箱を折る仕事か」 そう尋ねると女はようやく、うん、と首を縦にふった。そしてまたふけが舞った。 「みんなずる休みするから私だけ忙しいんです」 突然怒ったようにそう女は言ったが、表情はまるで変わらずあちこち泳いでいた視線が定まり声が大きくなっただけであった。 「お母さんは叱らないから飲みなさい」 もう一度、先程の炭酸飲料を押し付けると今度は素直に受け取り何度も頭を下げ、その度また、ふけ、ふけ、そしてつんとしたにおいがした。女は手馴れぬようなてつきで炭酸飲料の蓋をねじり、ちびりとひと口、口に含むとまた慣れぬ手つきで蓋を戻して言った。 「あなたお名前は」 「ボクは坂田、きみは」 女は相変わらず、慣れぬ様子で炭酸飲料の蓋をとり、ひと口ばかりちびりと飲むとまたすぐ蓋を戻しを何度も何度も繰り返していた。 「ひより、おおたにひより」 「ひよりさん、か」 ふけを撒き散らしながら女は何度も首を縦にふった。 そして何度も蓋を開け閉めしてはちびり、ちびりと炭酸飲料を女は口にした。 少し打ち解けることができたのだろうか。こういった人たちは自分と同じ知的レベルであると感ずると心を開くものだ。私も自分で思うより知能は低いようだ。女はちびり、ちびりを繰り返しながら地面をじっと見つめていた。私は女をあらためてよく観察した。やはり何度見ても美しい顔立ちで、体は痩せ、そして透き通るような白さであったが、なぜか女はこの熱く焼け爛れるようなアスファルトの上を裸足でいる、その足だけが汚れ少し傷つき血の出ているところもあった。汚れや傷がなければ白く美しい足なのだろう。 「履き物はどうしたのだね」 私が尋ねると突然女は走り出し近くの石段から、遠目にも汚れたサンダルを奪い取るように手にして戻ってきた。女らしい装飾のある踵の少し高いサンダルではあったが酷く汚れストラップの部分が半分もげかかっていた。それを女は履き私に少し笑ってみせた。私はサンダルにその足に目をやりながら言った。 「壊れているね、お気に入りなのかね」 女はその壊れかけ汚れたサンダルを脱ぎ私の目の前に突き出した。 「三千円もした」 私はそのサンダルを手に取り鼻を近づけた。においはなく底のコルクのその匂いだけがわかった。私はそっとそのサンダルの足裏の触れる部分に舌を這わせた。私にはこういう女性の足を偏愛する恥ずかしい性癖があるのだ。このとき私はこの女ならなんともないだろうと確信していた。日の下で堂々と女の履き物を本人の眼前で舐め回すことを何度、夢にまで見たことか。それが今叶い私はズボンの中の肉茎を硬くし、触れずとも射精しそうなほどに尚硬くし興奮していた。女はそれを無表情に眺めちびり、ちびりと炭酸飲料を飲んでいるだけであった。私はその女の見ている目の前でこんな変質行為をしていることに殊更興奮を覚えた。私は興奮も収まらぬままその唾液にまみれたサンダルを女の汚れた足を手に取り履かせてやった。それでも女は全く無表情に炭酸飲料を飲んだり飛んできた蜻蛉を指さし声をあげたり無邪気にしていた。 「歳はいくつだね」 その言葉に女は一切の動きを止めた。 「わからない」 私は理性の歯止めがとれたように、それは突然の大雨で川が氾濫したごとく欲望が加速し女のその痩せた体を抱き寄せた。女はびっくりしたようであったがそれまでの忙しなさが嘘のようにおとなしくなり私の胸に抱かれた。そして私の胸の中で女は呟いた。 「ねむいの」 女は小さくそう言うと呼吸もゆっくりになり本当に眠ってしまいそうであった。さっきの自動販売機のすぐ脇にはもう使われていない作業場のようなものがあった。私は女を抱いたままその作業場へとゆっくり歩いた。女は一切抵抗することなく黙って私に着いて歩いた。 私と女は作業場の地べたに寝た。女に腕枕をすると女の方から抱きついてきた。 「結婚しよう、どうかね」 「うん」 女は私の腕の中で首を縦にふった。割れた窓から射し込む日差しにふけが勢いよく舞った。ワンピースの裾から手を入れその白い太ももをなぜ回すと女はため息のよう声を漏らした。 「結婚する」 さっき会ったばかりの女はそう言うと全てその身体を人生をも私に委ねたのだ。 女もそして私もまた。
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