ちっちゃなダイヤモンド

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ちっちゃなダイヤモンド

真夏の夕暮れどき、ドブ臭く、そして蒸し暑い風が安アパートの窓から吹き込み、膝を折り無表情に酷く疲れた顔で乾いた洗濯物を丁寧に畳む君の額にも首筋にも玉のような汗が流れていた。壊れて首をふらなくなった扇風機の音がやけに耳障りで僕は窓辺で何本も立て続けに煙草を吸いながらそんな君を見ていたのだ。そのときなぜだかふと、君は仕合わせなのだろうかと考えた。ボサボサの髪を縛り、襟元が伸びきり色褪せたTシャツに、よくみればほつれかけたショートパンツ、スマートいや、不健康に痩せた身体、この暑さのせいだけでなく化粧をしたところも見たことがなかった。果たして君は女として仕合わせだのか。やがて巡らした思いは僕の収入の低さというか生活力のなさに及んだ。中学を出てすぐ社会人となり早いもので十五年、飽きっぽくて人間関係の構築が苦手で職を転々とし、もう履歴書に職歴は書ききれぬほどであった。早ければ数週間、長くとも一年や二年で職を変わっていた。今は小さな町工場に勤め朝から晩まで油にまみれ、生活保護費より安い月給で働いている。学歴のない者は仕方のないことなのか。元来勉強嫌いで高校に進学する気は毛頭なく、それ故に大学などてんでお呼びでなかったのだ。今はそれを後悔している。堪え性のなさからの低学歴でもあると最近ようやく考えられるようになった。ただ縛られることを嫌い、社会人になれば自由になれるのだと信じ込んでいた。両親や教師がいくら進学をすすめても聞く耳を持たなかった自己責任なのだが、それに君という女まで巻き込んでしまったことは今更ではあるが猛省している。もしも、君は僕と出会わなければ今頃は大きな家の寒いくらいクーラーの効いたクラシック音楽の流れる部屋で紅茶でも飲みながら高給取りの夫とにこやかに上品な会話でも楽しんでいたのではないだろうか。そう考えると僕は胸が苦しくなるのだ。今まで何度もそう考えたことはあったが、玉のような汗が顔じゅうから流れる君のそれがまるで涙のように思えて一層胸が締めつけられるようで苦しい。 洗濯物を畳み終え額の汗を手の甲で拭う君は目を閉じ深いため息をついた。立ち上がり、くるりと僕に背を向け黙って台所へ行くその背中はまるで老婆のようで、それも全て君に難儀をかける僕のせいなのだ。いたたまれなくなり僕は少しの小銭をポケットに入れ外へ出た。 「ちょっと出てくる」 君は目を合わせるだけで返事もなかった。疲れているのだろう。毎日パートをふたつもやって家事までさせているのだから疲れないはずがない。そして何も手伝うということもない自分はどうしたものか。安アパートが立ち並ぶ、地元ではスラムと呼ばれる辺りを抜け商店街へと用もなく歩いた。妻はまた煙草を買いに出たのだろうというくらいにしか思っていないだろう。僕もそのつもりであった。なんとなくフラフラと商店街を歩くと雑貨屋が目についた。店先には何かアクセサリーのようなものが並べられていた。指環やイヤリングなどシルバーやゴールドとアクセサリーが店先の照明にキラキラと輝いていた。近寄って値札を見ると、どれも300円や500円のおもちゃであった。買い物についてきた子や孫に強請られ買い与えるにはちょうどいい値段なのだろう。どれも安くさく本当におもちゃのようだが、そのひとつに僕の目はとまった。小さなガラスのダイヤモンドの指環。ガラス玉なのにキラキラと輝き辺りの照明などを反射し輝きは特別にみえた。値札をみると300円。部屋を出るとき無造作にポケットへねじ込んだ金を掌で勘定する。400円あった。これでは一箱500円の煙草も買えぬ、いやそれよりこれを妻に買って帰ろう、そう思った。おもちゃだ。しかし、僕は妻には指環のひとつも買ってやったことがない。結婚式も挙げることができなかったのだから婚約指輪だの結婚指輪も当然くれてやっていない。それでも何ひとつ文句も言わずこの十年、毎日忙しく働き詰めの妻。僕は一体何をしてきたのだろう。彼女を不仕合せにするために一緒になったようなものではないか。今になってやっと気がついたのか。二十代の一番楽しい時期を僕は彼女から奪ってしまったのだ。こんな300円のフェイクのダイヤモンドでその罪が滅ぼせるものか。しかし罪滅ぼしではなく、こんなおもちゃではあるが妻に買って帰りたいとなぜだか強く思ったのだ。 僕はその小さなガラスのダイヤモンドの指環を握りしめ商店街を走った。もうとっぷりと日も暮れていた。ドブの臭いと喧騒のスラムも駆けてアパートの階段を駆け上がった。おや、どうしたのだ部屋には電気が点いていなかった。そっとドアノブを回しドアを開けようとすると妙な重さにドアが開かないのだ。何か嫌な気配を感じながら強くドアノブを引いた。次の瞬間、僕の目に飛び込んできたのは内側のドアノブにタオルをかけその輪っかに首を通した変わり果てた妻が転がり出たのであった。安らかな顔とはこういう顔なのだろうか。先程までの酷く疲れ険しい表情はそこにはなかった。 ちっちゃなガラスのダイヤモンドひとつ渡すことすら僕にはできなかったのだ。
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