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人の一生には限りがある。生まれた時から死への秒読みが始まるといっても言いすぎではないだろう。生きるために生まれたはずなのですけれど。 ある日、大学時代の友人が突然尋ねて来た。毎年、社交辞令沁みた賀状を取り交わし、まだ二十代のうちは共通の友人、知人の結婚式などで顔をあわせてはいたのだが、もう五十にもなると御祝儀もなく、じつに二十年以上も会っておらなかった。互いに仕事や家庭や何某に追われ、言い訳をするならそれが適当であろう。しかし、しばらく見ぬ間にずいぶんと痩せこけ顔色は浅黒く声にはりもなく、明らかにどこか体を悪くしているのが見て取れた。強ばった挨拶抜きに部屋へ通すと、その友人の柿崎を見た妻は絶句した。私たちの結婚式で私の友人代表で挨拶をした柿崎しか知らぬ妻は仰天していた。それもそのはず柿崎は柔道経験者で恰幅もよく、声もじつに通る大きな声であったものが蚊の鳴くような声で 「奥さん、お久しぶりですね。お邪魔します」そう言ったのだが当の妻はへどもどとして何を言っているのかわからないような言葉で出迎えた。仕方がない。この私が一番、柿崎の今の姿に驚愕を覚えているのだから。 「飲まないか」 柿崎は大事そうに抱えておった風呂敷包みを広げ、一升瓶をテーブルに立てた。柿崎の生まれ故郷秋田の県南の地酒であった。 「阿櫻じゃないか、懐かしい」 大学時代、柿崎が実家から送られてくる仕送りにはちょくちょくこの酒も同袍され、よく私もご相伴に預かったものだ。三十年以上前に突然連れ戻されたような気がした。 「懐かしいだろう、おまえとはよく飲んだな」 柿崎は痩せて引っ込んだ目で笑ってみせた。妻がとりあえずのつまみを見繕ってコップをテーブルのせた。互いに酒を注いだ。話したいこと、聞きたいことなら山ほどあるのだが、今はひとつ、柿崎の今の姿に関することだけであった。 「おまえずいぶん痩せたようだが、どうしたんだ」 思い切って訊ねてみた。 「あと数ヶ月らしいんだ」 私は口元に運びかけたコップが顎のあたりで行き先を失い止まってしまい、チーズやらハムなどの皿をテーブルに置きかけた妻はその皿を床に落としてしまった。 「よせ、悪い冗談などおまえらしくないぜ」 私は平静を装ってはいたが少しうわずったような声で言った。 「胃癌でね、医者に行ったときにはもう手遅れだったのさ」 柿崎はまたほんの少しだけ酒を口に含んだ。大きな体であったこの男の飲み方たるや注がれる酒はみな一気飲みという工合の飲み方であったのだが、痩せこけたこの病人、ちびりちびりと、いやそれ以下、舌を湿らすだけの酒。 「それなら尚更、酒など体に毒だろう」 私は突然のことに思考があちらこちらと飛び回り一切まとまることがなくそんな言葉しか出なかった。じっと私の目を見て痩せた眼で笑いかけながら柿崎は言った。あの頃が一番楽しかったと。 「最後におまえと飲みたかったんだ」
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