新・玉川入水

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新・玉川入水

私という女を失って長いこと生きていく苦しみに比べたら、こんな苦しみはほんの一瞬だと女は言った 女は私の手首を堅く掴みけっして離そうとはしなかった。土砂降りの雨の夜、人通りなど全くなく街灯すらないこの橋の上で心中しろと迫る女と拒む私。そんなに死にたければひとりひっそりと済ませればよいではないか、なぜ私が道連れにされなければならないのだ。ゆうべ出会い、たったの一度枕を共にしただけにすぎぬこの私がなぜこの身の上も詳しくは知らぬ女と心中などせねばならないのであろうか。ふらりと帰れば妻も子もあるのにだ。それやあちこち飲み歩いては方方の女のところに転がり込み情を交し、飽きればまた別の女のところへ転がりんでは女を玩具にし、それも飽きれば妻と子の待つ家へ、さもさっき煙草でも買いに出て戻ったような体で帰りつき、また何事もなかったように暮らし、飽きれば飲みに出たぎり帰らぬふしだらな亭主であり父親。そのつけがまわってきたのだろうか。存外私に死ぬ気などさらさらなく私はとにかく抵抗を続けていたのだ。しかしこの女の情念がざつにおぞましく少しでも気をぬいたら間違いなくあの世へ道連れにされるであろうことはその形相からも容易に察することができたのだ。橋の欄干にしがみついて離れぬ私の手を引いて、早く一緒に飛び込めとそればかり繰り返す女。このとき私はなんという失敗をしたものかと後悔しきりであった。たまたま遅くまでやっている店で居合わせ意気投合し、いつものように女の部屋に泊まり当然に目交い朝になりだらだらと日が暮れるまで部屋で過ごし、夜には飲みに出かけこの有様だ。ゆうべに出会い身の上話しもそこそこに男と女の関係になっただけで、本当にこの女のことなどちっとも知らないのである。名前も亜紀と言っていたがはたしてそれも本当なのか嘘なのかすらたしかめようもない。青森の生まれで中学を出て集団就職で東京へ来たと言うがそれとてどこまで本当やら。かく言う私も名前も適当ならば売れない画家というのも嘘っぱち、相手を責めるなど以ての外なのだ。だからそれを気になどとめないが、なぜそんな薄っぺらな私とこの女が心中せねばならんのだ。じつに女は大変に興奮し本当に死ぬ気なのだろう。激しい雨の夜中に押し問答は続いた。どのくらい時間が過ぎたのかもわからぬ状態であった。誰かしら通りがかって止めに入ってはくれぬものだろうかと、その願いも虚しくこんな真夜中に誰もやって来はしなかった。 「なぜ私と死にたがるのだ、ゆうべ知り合ったばかりではないか」 女は変わらず激しく私の手首を引いて隙あらば川に飛び込まんとしながら叫ぶように答えた。 「最後の男になって」 おそらくこの女もずいぶんと浮名を流してきたのだろう。そして死をもって全て清算する気なのであろう。しかしその地獄の道連れの伴侶に選ばれるのはたまったものではない。まして互いを熟知するほど長年連れ添ったか情を交した仲なら別だが、お互い嘘の名前を名乗った者同士かもしれぬふたりが死ぬことに全く合点がゆかないのだ。ゆくという者があれば今ここへ来て話を聞いてみたいくらいだ。雨は益々激しさを増し長い時間雨に打たれ声を張り上げ言い争ったものだからだんだんと疲れ、根負けに近いような按配になってきた私に尚も勢い衰えず地獄の縁へと誘う力強い女。この痩せ体の女のどこにそんな力があるのだろうか。瞬きひとつせず目を大きく見開き、一緒に死んでと大声で懇願する女。やがて私は疲れ果て橋の欄干から手を離してしまった。まずは私を突き落とそうとする女。なかば抵抗する体力も尽き好きにさせて楽になろうかと思った。 「なぜ私なのだね」せめてその理由だけでも知らされなければあまりに不義理、通り魔にでも遭ったものと一緒であろう。 「本気で好きになれた人と一緒に死にたいと決めていたのよ」 そう言いながらもぐいぐいと私の体を橋の向こうへと押しやった。 「何も知らぬ同士だのにか」 もはや欄干から半身落ちかけた私の問に女は答えた。 ゆうべ一緒になろうと言って私を抱いたじゃない。あなたは私を本気で好きなのでしょう。それならば。 処女の恐ろしさよ
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