グッバイ・ティファニー

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グッバイ・ティファニー

高級腕時計やネックレスそれが本当の人間の価値ではないのだ。あくまでも装飾品は装飾品なのだ。 急な雨にタクシーもつかまらず、車持ちの男連中もほかの娘と遊んでいるのか一向にポケベルも鳴らない。いつもならひっきりなしにポケベルが鳴り鬱陶しいほどであったが、気づけば私のポケベルは最近全く鳴らなくなっていた。壊れたわけでもないだろう。誰彼構わず公衆電話からメッセージを送っても誰からも音沙汰なし。この雨の中を歩いて帰るなんて惨めで何よりみっともない。バッチリきまった髪も化粧も服もアクセサリーもバッグも靴も全て雨に汚れるのは堪らない。そんな目に遭うなら死んだ方がマシだと思っていたところへおかしな安っぽい音のうるさいクルマが私の横に止まり助手席が開けられた。 「あの、よければ乗りませんか、お困りなんでしょう」 いかにも爽やかさだけが売りのような男が声をかけてきた。こういうのには慣れている。ナンパのつもりなのだろう。いいわ、雨傘代わりにしてやろう。私はそう考えた。 「えー、ほんとにー、助かりますー」 心にもない言葉とスマイルでとっとと乗り込む。小さく狭いクルマ。相変わらず景気がいいのはマフラーの音だけ。 「彼氏が忙しくて来れなくなって困ってたんですよー」 予め予防線を張っておくのが常套手段。クルマに乗ったからって気安く口説かれたら堪ったものじゃない。男をあしらう術など短大時代に全て学んだつもりだ。 「どちらの方に行かれますか」 まるでタクシーだ。私は笑いそうになりながら答えた。 「とりあえずこのままこの道をまっすぐで」 様子を見て、あまりヤバそうでなければ自宅まで、ヤバいやつなら少しは濡れても自宅の裏通りまでと思案していた。 「急な雨ですからね、タクシーもつかまらなかったでしょう」 見たらわかるものをわざわざ言うのか。私と話したいんでしょう、知ってる。声をかけてくる男はみんなそう。そしてみんな私と付き合いたがった。とにかく私をモノにしたい男だらけだった。普段なら私がその辺に立っていたら高級車が次から次に声をかけていくと言っても過言ではないほどであったのだ。まあ、無言でいるのもなんだし少しからかってやろう。 「このクルマはなんてクルマ」 どうせ中古のポンコツだろう。こういう身なりのパッとしない男はクラウンやマークIIやプレリュードなどと違い大概聞いたこともないような名前のクルマに乗っているものだ。現に私はこんな小さな高級車なんか知らない。それにしてもみすぼらしい身なりの男だ。Tシャツ1枚に色落ちしたジーンズ、のぞきこめばキャンバス地のハイカットのスニーカー。 「これはカローラレビン、AE86っていうんです」 聞いたこともない。カローラなんて名前は知っているが貧乏人の乗り物ではないか。よくそんな貧乏人のクルマで私をナンパしてきたものだ。私をずいぶん安く見積もったものだ、そう考えると腹が立った。 「へえ、カローラってお金のない中年のクルマでしょ」 どうせ雨傘代わり、私と付き合うにしては不釣り合いな男だ。ずけずけと貶してやることに決めた。 「たしかにカローラは中年向けで安いけれどこれはスポーツタイプなんです」 嫌味を言われていることすら感じないのだろうか。前をしっかり見たままにこやかに答えるのだ。少しおつむの方も安いのかしら。 「クレスタとかクラウンより安いんでしょ」 「たしかに、でも中古で120万でした、これが欲しくて。改造にも同じくらいかかってますしね」 くだらない。クルマの改造など暴走族の仕事だろう。見た感じ暴走族というよりは中学生がそのままオトナになったらこんなだろうという模範のような男だ。そして男は勝手に経済学がどうしたの、文豪では誰の書籍をよく読んでいただのと喋っていた。私は興味もなければそんな無駄な知識もない。鬱陶しいので話しを遮った。 「その腕時計はどこのブランド」 それこそ中学生の男子が喜んでつけるようなまるでオモチャのような黒い腕時計をチラッと見てから男は答えた。 「これは、Gショックです。これは水につけても平気な頑丈な時計なんですよ」 「タグホイヤーではいけないの」 買えないのは聞かなくともわかる。嫌がらせだ。 「欲しいと思わないですからね、Gショックはダンプカーに轢かれても壊れない凄い時計なんですよ」 嬉嬉として話す男が滑稽でならない。どうみてもクルマオタクの童貞くんだろう。それで間違いない。きっとろくな大学も出ていないのだろう。そう考えるとアルバイト生活か何か、いいとこに勤めてもなさそうだ。つくづく安く見られたものだ。それから私は自慢話をさんざんしてやった。バッグも時計も数十万、このティファニーのネックレスはどうしても私とやりたかった男が無理をして私に贈ったが私はそれには答えずネックレスだけ貰ったことや、その値段、呼べばすぐ飛んでくる男どもが何人でもいることを。男は黙って意味もわからず聞いていたようだが 「でも、誰も来なかったみたいですね」 悪気なく言われキレそうになったが、たかがこんな貧乏人を相手にするのもバカバカしい。 「その角で止めて」 ちょうど雨は少し小降りになっていた。自宅の一本裏通りでクルマを降りた。春の雨はまだ冷たいがほんの少しだ。濡れてもたいした距離ではない。 「家まで送りますよ」 ほらきた。次は電話番号か。私とあなたはもう二度と会うこともないの。私が貧乏人を相手にするとでも思っているのか。身の程知らずもいいところだ。毎日家の前で待ち伏せなどされたら堪ったものじゃない。気安く自宅まで教える女なら脈アリよ貧乏人の童貞くん。 「ここでいい」 私は礼も言わず冷たい雨の中を走った。濡れたヒールは明日は会社へは履いていけない。でもアパートへ帰れば男どもに貢がせた高級ブランドのハイヒールがゴロゴロあるから一向に困ることはない。男のクルマは爆音を立て走り去った。口説かない、口説かれない。こんなことは今までなかった。高いものしか身につけない私に気が引けたのだろう。だとしても興味すら持っていなかったようなあの態度には腹が立つが所詮生きる世界が違うのだ。それにしても相変わらずポケベルには男も女も誰からもメッセージは入っていなかった。 ゆうべのことなどすっかり忘れ私は無造作に新しいハイヒールを選び出社した。これでも上場企業のOL。親の縁故入社ではあったが入ったもん勝ちだ。誰もが羨む上場企業のOL。身につけるものは全て高級ブランド。私は高い女だ。ずっとそう思っていた。デスクに座り何もすることもなくただぼんやりしていたが、誰も私におはようの一言もないことに気がついた。どんどんみんな私から離れてゆく。いや、ほかの連中が悪いのだ。友達づらした女どもも、私をさんざん口説いてい男どもも。そう、ここの連中も僻み、妬みの塊なのだろう。やがて課長が一人の男を伴ってオフィスのドアを開けた。 「みんな、今日からうちの部署の所長をしていただく太田さん。社長の息子さんだ。大学は明治。ま、一応ボクの後輩だね。みんな、よろしくお願いしますよ」 課長を伴って現れたのはゆうべのポンコツ自動車の男ではないか。私は呆気にとられ彼を凝視していた。 「太田です、早く仕事に慣れ、皆さんとも仲良くしていただけたらと思います」 一通りの決まりきった挨拶のあと彼と目が合い笑顔で言った。 「人間はあくまで人間そのものが大事です。いくら飾り取り繕っても中身のその価値は変わりません」
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