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先生の部屋には、使い捨ての日用品が多い。
歯ブラシ、コップ、お箸にお皿……。
誰がいつ泊まってもいいように、それらは常備されていた。
それはつまり、寝食をともにする特定の相手がいない、ということだ。
たまにこの部屋で女のひとや男のひとと鉢合わせることがあるけれど、見るたびに顔ぶれは違っていた。
僕は合鍵を使って、先生の家に入る。
この時間、先生はまだ学校だ。今日は先生のところも卒業式だから、通常授業の日と比べると帰りは少し早いだろう。
卒業生全員に配られた花をポンとテーブルに置き、ブレザーを脱ぐ。
もう制服を着ることはない。学生でなくなった僕は明日からは何者になるのだろう?
少しの感傷を宿した指先で校章バッチに触れて、それからいつものように吸い殻の詰まった灰皿を片づけた。
先生は、家でたくさん煙草を喫う。校内で喫煙できないからと言って、喫い溜めでもするかのようにずっと煙草を咥えている。
僕は灰皿をきれいにした後、空気清浄機をONにした。
これは先生が僕のために買ってくれたものだ。
僕が初めて此処に来たのは十歳のときで。
それから八年。空気清浄機はくたびれてきている。
これが動かなくなったら先生は新しいものを買ってくれるだろうか?
それとももう此処へは来るなと言われてしまうだろうか。
先の想像は難しい。でも、そう思いながら八年、先生との交流は続いてきた。
小学五年生のとき親に通わされた塾に、先生は居た。
先生は当時大学生で、アルバイトの塾講師をしていた。
他の先生に比べると無駄話もせず、笑顔もなく、淡々と授業を進める先生は、少し怖くて。僕はいつも部屋の隅に座って先生の話す声を聴いていた。
先生の声はかすれている。ハスキーボイスというのだと、誰かが言っているのを耳にした。
枯れた声は、しずかに耳に馴染んで。不思議とやさしく響いた。
塾が終わればまっすぐ家に帰らなければならない。
それが嫌で僕は愚図愚図と帰り支度をする。だから教室を出るのは僕がいつも最後だった。
ある日、施錠のため僕が出て行くのを待っていた先生が、おもむろに、
「なんなのおまえ、帰りたくないの?」
と尋ねてきた。
「出てくのいつも最後じゃん。友達と帰ったりしないのか?」
問われて、僕はうつむくようにして頷いた。
「いじめられてんの?」
その質問には首を横に振る。友達は学校にも塾にも居なかったけれど、いじめと表現するような目に遭っているわけではない。
「んじゃ親か」
あっさりと、先生が指摘した。
僕はどう答えていいかわからずに、ただ先生の顔を見上げた。
「帰りたくないなら、俺ん家来る?」
「……え?」
「明日土曜だし休みだろ? 予定ないなら泊まっていいけど。どうする?」
廊下へと出ながら、先生がそう言った。
なぜそんな提案をしてくれたのだろう。
よくわからないながらも僕は反射的に、先生の後を追っていた。
誘拐犯になりたくないから親に連絡をしておけ、と言われて家に電話した。塾の先生の家に泊めてもらう、明日も勉強を教えてもらう、と説明したら母親は二つ返事で了承して、電話は向こうから切れた。
先生の家はマンションの一室で、戸建てに住む僕には物珍しく思えた。
きょろきょろしながら廊下を歩いていると先生に笑われた。
「そんな見渡すほど広いとこじゃないだろ」
突き当りの部屋の前で足を止め、先生がポケットを探る。
鍵を出したと思ったのに、出てきたのは小さな箱だった。
白い箱から白い煙草を一本抜いて、唇に咥えライターで火をつける。その流れるような動作に見惚れた。
「一本だけ喫わせて」
僕の頭を撫でて、先生が内緒なと言って人差し指を立てた。
誰に内緒なんだろう。塾の他の先生か。それとも僕の親にか。
夜風の吹く外廊下の手すりにもたれ、先生が中空へと煙を吐き出した。
白いそれは僕のところへも漂ってきた。
すぐに喫い切ったそれを携帯灰皿に入れて、先生は今度こそ家の鍵をポケットから出した。
ガチャリ。開錠してドアレバーを引く。
「お帰り~」
中から誰かの声がして驚いた。先生は僕を促すように背中を叩き、自分はさっさと靴を脱いで上がった。玄関から続く廊下のドアを、「トイレ」「風呂」と指さしながら歩き、擦りガラスの嵌まっているドアを開いた。
「ただいま」
「お帰り。あっ、外で煙草喫っただろ」
「バレたか」
「喫煙者が思うより匂いは残るんだよ……って、あれ? 誰その子」
先生と気安い会話を交わした彼が、僕を見て驚いたようにソファから立ち上がる。
「俺の教え子」
「は、初めまして」
慌てて頭を下げると、先生がくくっと肩を揺らして笑う。塾ではほとんど無表情なのに、家ではこんな顔をするのか。
「教え子って……おまえちゃんと先生してたんだ」
「失礼だな。ちゃんと塾の先生やってるよ」
「想像つかない、ってこともないか。え? でもいいの? 教え子連れてきちゃって」
「親の許可とったし、今日そいつ泊めるから」
「え~?」
彼は戸惑いも露わに僕と先生を見比べて、それからふぅと息をつき、まぁいいかと微笑んで僕を手招いた。
「こっちおいで。晩ご飯、食べる?」
やさしい笑顔だった。
僕はその日二人と一緒の食卓で晩ご飯をご馳走になった。
二人に流れる空気は親密で。
ああこのひとたちは恋人同士なんだなと予想がついた。
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