あなたの声で牛を被る

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 ごくごくと喉を鳴らして、ペットボトルから体内へ冷たいメロンソーダを流し込む。波立つような炭酸の感覚が口の中を通り過ぎていった。  白塗りの壁を背もたれにして、私は角ばった木の椅子にだらりと座っていた。机に置いたジャージー牛の被り物が眠たそうな視線をこちらに向けている。  ユキちゃんが椅子を持ってきて、私の隣にぴったりとくっつけた。 「一口いいですか?」  椅子に腰を下ろしながらユキちゃんが言った。  私は半分ほど中身の残ったペットボトルを手渡した。元々ユキちゃんが買ってくれたものだし構わないけど、炭酸飲料は苦手だと前に言っていた気がする。  ユキちゃんの唇が飲み口に触れて、鮮やかな緑色の水面が傾いた。 「んー」  気の抜けた声を上げて、ユキちゃんはすぐにペットボトルを返してきた。 「やっぱり苦手なんだ」  私が言うと、ユキちゃんはがっかりしたように吐息をこぼした。 「先輩が飲んでると、おいしそうに見えるんですけど」 「おいしいよ」 「おいしくないです」  おいしい、おいしくない、と私たちは不毛な水掛け論を何往復か続けた。大して意味もないやり取りだけど、ユキちゃんの声は耳元で泡みたいに弾けて、何でもない言葉も心地いい。ついでとばかりに指先で私の脇腹をつつき始めたのは心地よくないけど。 「絵はできた?」  ペットボトルで脇腹を守りながら私は尋ねた。ユキちゃんはペットボトルのデコボコしたところを指で弾いて、「んー、まあ」と曖昧な返事をした。  二つくっついた椅子の上を滑るようにユキちゃんが身を寄せてきた。体がこちら側の椅子に大きくはみ出している。押し出されたペットボトルが脇腹に食い込んで、私は「ぐえ」とうめいた。  慌ててペットボトルを引っぱり出すと、ユキちゃんは更に距離を縮めてきた。「今度はおしくらまんじゅう?」と笑って押し返そうとして、ユキちゃんが思い詰めたような真剣な表情をしていることに気づく。こんな顔を見るのは、喫茶店で頼んだチーズケーキが店先の食品サンプルの三倍以上大きかった時以来だ。 「絵のことなんですけど」  少しの沈黙の後、ユキちゃんが切り出した。  よどみない音の流れに、一粒のためらいを溶かした声。いつもとは少し違って、だけどこれもまたきれいだ。耳に残る余韻に気を取られて、私はぼうっとした気分のまま「え?」とダジャレになりかねない返事をした。 「今日のやつ以外にも、夏休みの間に描きたい絵があって。モデルをお願いしたいんです」  ユキちゃんは早口に言った。それから半拍置いて、小さく「毎日」と付け足した。  私はペチペチとペットボトルの表面を指でつつき、パチパチと意味もなく何度も瞬きをして、パカパカと口を開いて「毎日?」とオウム返しに聞き返した。 「休みが終わるまで毎日、絵のモデルになってください」 「そっ、それはさすがに」  私はあたふたと首を左右に振り回した。夏休みはまだ十日以上ある。いくつか予定もあるし、数か月後には大学受験が待っているから、休みのうちに勉強もしておきたい。 「毎日はちょっと無理だよ」 「じゃあ、できるだけたくさん」  お願いします、とユキちゃんは私を見つめた。目に映るまっすぐなまなざしが、耳に届く透き通った声が、真剣で切実な色彩をまとっていた。  唇をきゅっとすぼめる。メロンソーダをがぶがぶ飲んだのに、やけに喉が乾いて仕方ない。「断る」という選択肢が、考慮の外側にずんずんと押し出され始めた。 「今のうちに描いておきたいんです。受験だ卒業だって忙しくなる前に」 「でも、絵のモデルだったら別に、私じゃなくても」 「先輩じゃないと変なこと頼めませんから。被り物とか」 「ちょっと、そんな理由なの?」  大げさに声を荒げると、ユキちゃんは真剣な顔つきを崩して、くすくすと笑い声を上げた。水滴が跳ねるような軽やかな音色につられて、私の喉からも可笑しさの混じった吐息がこぼれる。 「もう、ふふ、ひどいんだから」 「それだけじゃないですよ」  弾んだ息づかいを収めて、ユキちゃんは言葉を継いだ。 「先輩を見て絵を描くの、楽しいんです」 「魅力的なモデルってことかな」  冗談のつもりで言うと、ユキちゃんは思いのほか本気そうに「そうかも」と頷いた。まともに反応されると恥ずかしくて、顔中がちりちりと熱くなる。 「なで気味の肩の輪郭とか、小さくて丸っこい膝頭とか、ずれかけたポーズをこっそり戻す仕草とか、休憩に入った時のぽけーっとした表情とか……先輩をずっと見てると、不思議なくらい気分が乗って、筆がすいすい動くんです。すいすい動きすぎて予定と違う絵になる時もありますけど。あ、今日のは予定通り描けましたよ。ばっちり牛の頭です」 「そ、そう、なんだ」  私はしどろもどろに相槌を打った。さらさらと続く言葉が照れくさくて、余計に顔の温度が上がる。冷やそうと頬に当てたペットボトルがあっという間にぬるくなっていく気がした。  すっとユキちゃんが顔を寄せてきた。深い色をした瞳がまっすぐ私を捉える。私は手を滑らせて、落ちたペットボトルが膝に直撃した。 「無理を言ってごめんなさい。だけど、描ける間に描きたいんです、先輩のこと」 「あの、えっと、ユキちゃん――」 「お願いします」  ユキちゃんの口元がゆっくりと動いて見えた。透明な雫みたいに澄んだ声に、ためらいのような、真剣さのような、はにかみのような、そのどれでもないようなものが混ざって、水飴のようにとろりと、私の耳に流れ込んでくる。  気づくと私は口を開いていた。何か返事をした気がするけど、感覚も思考も水飴の中に沈んで、何を言ったのか自分でも分からない。  ユキちゃんが目を見開いて、驚いたような顔をした。「やっぱり毎日でいいよ」とか、「被り物でも何でもOK」とか、「ブオォ、グォ、ブォーッ」とか、おかしなことを口走ってしまったのかもしれない。  まあ、でも、いっか。  花咲くような笑顔へと移り変わっていくユキちゃんの表情を見つめながら、私もそっと口元を綻ばせた。
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