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その日は大事な商談が予定されていた。
だからなるべく早く出社して準備をしなければ…。
悠介はそう考えていた。
にもかかわらず、彼が今いるのは職場のデスクなどではない。
先ほど会ったばかりの老爺の家の前にいるのだ。
「お前さん、ちょっとここで待っていなさいね」
年老いた男はそう言い、壁伝いに足を引きずりながら家の中へ入っていく。
玄関先に残された悠介は、慌ててその背中に向かって叫んだ。
「あの!…わたしは会社へ行かなればならないんで。これで失礼しま」
「まあ、すぐ戻るからね。待っていなさいね」
聞く耳を持たない爺さんである。
早く電車に乗りたいという焦りの気持ちと、もう間に合わないという諦めの気持ちがせめぎ合い、悠介は呆然と立ち尽くした。
なぜ“こんなこと”になったのか。
あらましはこうだ。
巻島悠介、某商社の営業第2課に所属し、それなりにプライドを持って働く36歳。
8時30分の始業に合わせ、自宅を出てすぐの公園前を通り過ぎようとしていた時である。
朝の散歩か、目の前を歩いていた老人がよろけた。
助けようと手を伸ばしたが届かず、その人は持っていた杖ごと斜めに転倒してしまった。
「大丈夫ですか」
どう見ても大丈夫ではなさそうな老人を助け起こす。
「救急車をよびましょうか」
高齢者は、少し転けただけでも骨折する。悠介の祖父もそうだった。
だから悠介の配慮は間違っていないはずだが、老人は頑なに「必要ない」と言って聞かない。
逡巡したが、彼は頭を打ったわけではない。
意識もはっきりしている。
救急車も受診も拒否されたのだから、
(このまま放って、行ってしまおうか…)
一瞬、そんな考えが脳裏をかすめた。
だが、またどこかで倒れられても寝覚めが悪い。
幸い、爺さんの家はこの近くだという。
お節介とは思ったが、悠介は彼を自宅まで送り届けることにした。
そして、今に至るというわけだ。
「あの、お礼も何もいらないですから!聞こえてますかー?わたしは本当にもう失礼しますよ」
玄関先から、廊下の奥へ叫んだが、部屋へ引っ込んだ爺さんからの返答はない。
悠介はため息混じりに腕時計を見た。
朝イチの業務はもう間に合わない。
諦めて上司に連絡しようと、ケータイを取り出した。
すると、ようやく老人が顔を出し、のっそりとこちらへやってくる。
その手には、小さな瓶のような物が握られていた。
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