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その日、当麻榮介は『幽霊』に会った。
季節は霜降。日が落ちればぐっと冷え込む、十月の末のことである。
尤学館大学で講師を勤める当麻は、構内に与えられた自室に向かっていた。
当麻の部屋は文科の北棟、四階の端にある。辺りは静まり返り、己の革靴が鳴らす音しか聞こえない。最上階の端で階段からも遠いという不便もあってか、当麻の部屋の隣も向かいも、そのまた隣も、物置や資料室と言う名目の空き部屋となっていた。
加えて、廊下の電灯は二年前の大震災で故障したまま修繕されておらず、常に薄暗かった。今でこそ窓から入る夕日で仄かに明るいが、夜にもなれば真っ暗だ。それゆえ、ここには学生も教授もあまり近寄らない。
そんな不便な場所の部屋を与えられたのは、当麻が文科の講師陣の中で若いからだ。いや、当麻のある『噂』のせいもあるだろう。あえて彼を隔離するために、この部屋を宛がったのではと推測する者も多い。
しかしながら、当麻自身はこの部屋に満足していた。
奇しくも北東、鬼門の位置にある当麻の部屋。
『この部屋に来ると背筋が寒くなる』
『幽霊でも出そうだ』
皆から恐ろし気に言われるが、当麻はむしろ大歓迎であった。
『幽霊に会えるものなら会いたいね』
笑顔で言う当麻に、教授達は揃って顔を顰め、学生達は奇妙な視線を寄越してくる。
もっとも、一年半以上ここで過ごしていながら、当麻は『幽霊』に会えたことはなかった。奇妙な現象に出くわすことも無く、念願はいまだ叶っていない。
だから、鍵を開けて部屋に入った時、さすがに少しばかり驚いた。
部屋の中には、奇妙な匂いが充満していた。生臭い、不快な匂いだ。
匂いの元はと探す前に、部屋の中に人がいることに気づいた。
窓際の書き物机の傍らに、一人の青年が背を向けて佇んでいる。夕暮れの暗い光に浮かぶのは後ろ姿だったが、学生帽と黒いコートから、学生であることが知れた。
電灯を点けるのも忘れ、当麻は手の中の鍵と青年を見比べた。
はて、自分は鍵を閉め忘れていただろうか。……いや、たしかに鍵は掛かっていて、今しがた開けたばかりだ。十数秒前の己の行為を思い返し、当麻は尋ねる。
「君、どうやって入ったんだい?」
学生は答えずに、ゆっくりと振り返った。
男にしては妙に肌が白く、唇が赤い。鼻筋はすっと通り、濡れた黒い目が睫毛の下で暗く光る。繊細で艶めいた女性のような容姿には、見覚えがあった。
たしか支倉……そう、支倉清一だ。
文科の経済学部の学生で当麻の講座を受けており、何度かこの部屋に質問に来たこともある。だが、ここしばらく、彼は講義に姿を見せていなかった。
「……先生」
当麻先生、と消えそうな細い声が室内に響く。
「支倉君かい? どうした――」
尋ねかけて、当麻は言葉を切った。
振り向いた彼の、黒いコートの前が大きく開いていた。
その下の白いシャツ。胸の下辺りから腹にかけて、べったりと黒く汚れている。残照に照らされて、黒い染みの中に赤黒い艶が浮かんだ。
その時ようやく、当麻は部屋に充満する匂いが血の臭いであると気づいた。見つめる先の、赤黒く濡れたシャツの裾から、ぽたりと滴が落ちる。
「先生」
彼のくぐもった声が、当麻の耳の奥で響く。
「……お願いです。僕を、探してください」
今一度見た彼の頬は色を失い、生者のそれではなかった。青ざめた唇から溢れた血が、顎から喉へと赤黒い筋を作る。赤い唇が紅く染まっていく。
「僕の身体を、探してください」
当麻に向かって伸ばされた彼の指先から、ぽたりと滴が落ちて、床に跳ねる。
息を呑む当麻の目の前で、彼はゆっくりと闇に呑まれ消えていった。
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