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家から勤務先のハッピー歯科医院まで地下鉄で4駅、そこから徒歩十分。住宅街と工業地帯の境目にある歯科医院の扉を開けた。
もう多田さんと杉本さんが来ているようだ。
彼らは知的障害があり、グループホームで暮らしている。我がハッピー歯科医院の院長先生は、彼らの賃金が極端に安いので喜んで掃除を委託しているのだ。
しっかり掃除してくれているのに最低賃金より安い、でも仕事があるだけいいのか。
自分にはこの制度が正義なのかか悪なのかわからない。
いつものように鞄をロッカーに置き、すぐに雑巾を手に取る。
私も二人と一緒に受付を掃除する。彼らはお金や大事な書類があるので受付の中には入ってはいけないことになっているのだ。
30分後、歯科衛生士さん三人が出勤してきた。彼女達は二十代後半で、開院当初からいる千秋さんと薫さん、一ヶ月前に入ってきた美和さんだ。
「おはようございます」
頭を深々と下げて挨拶したけれど、その中で美和さんだけが「おはよう」と挨拶を返してくれただけで、あとの二人は私の挨拶を無視してロッカールームに直行した。
うちの歯科医院は明確な序列がある。トップは医院長先生、その次が後継長男のの爽真先生、そして歯科衛生士さん達、最後が私と朝の掃除メンバーだ。
専門学校を卒業してすぐにここに就職したから、他の歯科医院のことはわからない。
けれど、専門学校時代の友人の景子が勤めている歯医者はみんな優しいと言っていたから、この何とも言えない序列はこの歯科医院独特のものなのだろう。
受付の机を拭いていると「俺も手伝うよ」と声が聞こえた。手を止め顔を上げるとそこには爽真先生がいた。
爽真先生は医院長の長男で29歳、顔はどこぞのアイドルにはまけないくらいのイケメン、優しくておまけに独身だ。
当然の如く私は爽真先生にときめいている。
「爽真先生!じゃあこっちも手伝ってくださぁい」
誰かの甘えた声が聞こえた。
歯科衛生士の三人だ。
彼女達は爽真先生の腕を引っ張り、診察室の中へと連れていく。自分達のテリトリーに連れていくのだ。
千秋先生が一度振り返り私を一瞥した。
「事務のくせに調子こいてんじゃねぇぞ」と振り返った意地悪そうな顔に小さな声でアテレコする。
歯科衛生士さん達の中には彼氏がいる人がいる。けれどみんな爽真先生のことを狙っている。爽真先生と結婚できさえすれば、彼氏なんかどうでもいいそうだ。
大きな声で話す歯科衛生士さん達の立ち話はよく聞こえてくる。
彼氏いるだけで羨ましいのに、何でその彼氏を大切にしないのだろう。
私が思うに彼氏は女の中の上位50%が持てる贅沢品だ。
けれど人間は段々とその幸せに麻痺し、それを大切なものだと思えなくなるのだ。
大きなため息をつくと、自動ドアが開き院長先生が出勤してきた。
「おはようございます」
立ち上がりそう頭を下げると、院長先生は小さな声で挨拶を返し、奥の診察室へと足速に歩いていく。
こうしていつもの私の日常が始まる。
診療開始30分前だと言うのに、医院前の植え込みスペースにもう田中のおじいさんと吉田のお婆さんが並び始めた。
うちは完全予約制だ、いくら並んでも診察の順番は関係ない。けれどお年寄りは大抵早く来て、ああやって会話を楽しんでいるのだ。
まだ早朝だから、お年寄りには風か冷たい。
自動ドアを手動で開け、外に出ると額に桜の花びらがついた。
向かいのマンションの桜がもう満開だ。
二人に挨拶をし、医院の待合室に招き入れた。
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