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午後の診察が始まった。午前中はお年寄りばかりだったが、ここからの時間帯は主婦や働いている人達が多くなる。
世の中は本当に上手くできている。
パソコンの画面から目を離し、窓越しに大通りを眺めると楽しげな大学生のグループが通り過ぎた。
今日は飲み会がある。主催の穂花によると相手は有名私立大学の工学部の人達らしい。
専門学校卒の私達には勿体無さすぎる相手だ。
暫くありもしない妄想をして浮かれていたが、ふと思い出す。
自慢ではないが私はあまりツイていない。
懸賞も一回も当たったことはないし、中学の卒業式の朝は車同士の事故に巻き込まれて足を骨折した。
高校の修学旅行もインフルエンザにかかって行けなかった。
だからひょっとすると今日も何かあるのではないか?
慌ててその杞憂を吹き飛ばす。悪いことを考えていたら、現実になってしまう。
診察が終わる午後5時半、その嫌な予感は的中することとなる。
わかりやすく顔に傷があり、濃い紺のスーツを着て、薄い紺色のサングラスをかけた、theヤクザのような五十代ぐらいの男性がフラフラとこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
「入ってくるな」「引き返せ」
その願い虚しく、男性はスイッチを切られた自動ドアを乱暴で手で開け院内に入ってきた。
大きなため息をついたが、自分の仕事を果たさなくてはならない。
「申し訳ありませんが、本日の診療時間は終了してまして」
怖かった、けれど言わなくてはならないのだ。
決まり文句を言うと案の定、男性は激昂した。
「てめぇ、ここに痛がってる患者がいるのに見んってどういうことじゃ、こら!」
けれど、ここで院長先生を呼びにいくと後で余計に怒られる。
「受付のことは受付で片付けろ」と。
無茶苦茶だ。
「ですから、診療時間は終了しまして」
恐怖で泣きそうになるのをグッと堪えて言い返すと、診察室のドアが開き人が出てくるのがわかった。
「どうされましたか?」
爽真先生だった。
男性は私よりもはるかに有効であろう爽真先生にターゲットを変更した。
「こいつがここに患者がいるのに診療時間が終了しましたしか言わねぇんだよ」
爽真先生は毅然とした態度を崩さない。
「彼女の言うことはもっともです。もう診療時間は終了しています」
「何だとコラァ!」
男性は凄んだが、爽真先生は怯む気配がない。堂々とヤクザさんから視線を逸らさない。
「ですが、急患だと話は別です。私は歯医者です。痛がっている人は放っておけません。ちょっと見せて下さい」
爽真先生はヤクザさんの口を開けさせ待合室で急遽診察した。
「酷い虫歯ですね、これは痛かったでしょう?急患は診療時間外でも治療しますから。奥にどうぞ」
するとおじさんは急に泣き出した。
「先生、痛かったんだよ。ありがとう!」
待合室にいた他の患者さん達も胸を撫で下ろした。
「やっぱ爽真先生は違うね、院長だったらこういう時出てこないもんね」
主婦二人組が噂話を始めた。
絶体絶命の大ピンチを切り抜け安堵し、椅子に座り込んだ。
そして「爽真先生かっこいい」と胸の中で絶叫した。
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