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 本当は、逃げ出したかった。  しかし腰が抜けて、身動きがとれない。  そのせいで、いやが応でも、目前にあるものを観察する羽目になってしまった。  死体の全身は、蛍のような柔らかい色で光っていた。  顔からはすっかり肉が落ちているせいで、男か女かもわからなかったが、胴体にわずかに張りついている着物の柄から見て、おそらく、女性のようだった。 「数百年、昔のことじゃ」  背後から急に声が聞こえ、ゆふは心臓が飛び出しそうなほど驚いた。  振り向くと、さっき忽然と消えたはずの青陽が、ゆふの折ったつららの隙間の向こう側に立っていた。 「村を、ひどい凶作が襲ったのじゃ」  おそらく、今起きていることと同じような状況のことを言っているのだろう。  ゆふはまだ腰に力が入らなかったので、這いつくばるようにしながら池のほとりを出て、青陽の足元に座った。 「村人たちは相談して、山の神に若い乙女を捧げることに決めた」  それを聞いて、言いたいことがわかったような気がした。 「それが、その、奥の……身体のことですか」 「ああ、そうじゃ。あれは(われ)の、在りし日の身体じゃ」 「えっ」  思いがけないことを言われ、戸惑う。  さっき見たものと、今話しているこの女性が、同じ人物ということだろうか。  意味がわからなかった。 「身体を地に捧げることで、我はこの地に恵みをもたらす神、青陽となり、その役割を果たすことができた。しかし見ての通り、その肉ももうほとんど残っておらぬ。そのせいで、昨年の不作が起きた」 「そんな……」  にわかには信じがたい話ではあった。  しかし、この不思議な空間で時間を過ごし、消えたり現れたりする青陽の姿を見た今、今までの日常の常識がどこまで通用するのか、ゆふにはわからなくなっていた。 「そこで、相談じゃ。おぬし、我の跡目を継がぬかえ。ふさわしい者が見つかるのを、ずっと待っておったのじゃ。そこにちょうど、おまえがやってきた」 「跡目、ですか……」  思いもよらない申し出に、ゆふは戸惑うしかない。  青陽も、それを理解しているのだろう。言葉を続けた。 「新しい肉を捧げられることで、来年からのこの地には、また豊かさが戻るであろう。それに、青陽の神を出した家は、この先、栄えることとなる」 「私の家が、ですか」 「そうじゃ。少なくとも、おまえが青陽となっている間は、豊穣の加護を受けることとなる。我の家がそうであったように」 「青陽様の生家……ですか」 「そうじゃ」  頷いて、口にした家の名は、たしかに、このあたりでも屈指の豪農だった。  それは、今のゆふにとっては、ひどく魅力的な申し出に思えた。  もとより、どことも知れぬ先に、売られようとしていた身だ。  家族のこの先数十年の豊作も保証されるとあっては、一時の金を人買いから貰うことよりも、よっぽどいいと思えた。 「だが、おまえはもう、人としての幸せとは、一切縁がなくなる。恋もできず、新しい家族を作ることもない」  その言葉に、子供の頃から秘かに結婚を夢見ていた村の青年の顔が、一瞬、浮かんだ。  村の寄り合いの帰り道、一度だけそっと結んだ手のぬくもり。  見つめ合う目に、愛情を確かに感じた。  だがその青年も、一揆に荷担した(かど)で、初雪の降る処刑場で、仲間と一緒に(はりつけ)になって死んだ。 「わかりました。継がせてください」  ゆふは、青陽に向かって、きっぱりと言った。  もしも、虚ろな瞳で人買いに連れられていく、若い娘が減るというなら。  もしも、長く続く空腹のせいで、もうすでに泣く体力すら残っていない幼い子供たちの、自分を捨てた親を求める、細く頼りない声を聞かなくてすむようになるというなら。  もうなにも持っていない、今の自分には、悪い話ではないように思えた。
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