ねじれの隣人

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 電線にぶら下がるワカメを見て、引っ越すことを決意した。 「いやいや、おかしいでしょ……」 「あっは、あははっ! ぎゃはははははは!」  煙草を咥えたまま呆然と空を見上げる俺を見て、隣の学生は盛大に大爆笑をかましていた。朝からうるせぇし二日酔いで声もガラッガラな上、パンツが見えてる。なにそれおしゃれ? パンティならまだしも、男のボクサーなんざ見たくもねぇよ。  あまりにも煩いからケツを蹴り上げてやればいとも簡単にころころと転がっていった。腹を抱え爆笑し続けていたが自分の大声に酔ったらしい。雲行きが怪しいと思うのも束の間、ゲボる声が聞こえてくる。終電間際の新宿かよ。朝から最悪。  やめよう。うん、決めたわ。  俺、会社やめて東京戻るわ。  まとわりつく潮の匂い。白い砂浜。どこからともなく漂ってくる刺激臭。えっさほっさと嘔吐物を砂に埋めるヤベー奴。目の前にはリゾート雑誌の表紙を抜き出したかのような青々とした海原が広がっていた。  知る人ぞ知るオンボロ下宿に暮らし始めたのは、就活に失敗し新卒でど田舎の工場勤務になった3年前のことだった。  変な金魚みたいな赤い魚の提灯がわらわらぶら下がった空港から、一般道を爆速で飛ばすタクシーを使い一両編成でトコトコ走る電車を乗り継ぎ訪れた下宿先は叩けば倒壊しそうなボロ屋だった。  住人は俺ともう1人。春から大学生になったばかりのアホの具現化みたいな男、柳だ。 「あーやっぱしんどいなぁ。誰だよまったく、台風来るからオールで酒盛りしようとか言った奴」 「オメーだよ」 「つーかにぃサン仕事は?」  今日、日曜だよ。弊社は完全週休2日制で休日出勤もないに等しい。不幸中の幸いである。あと俺はお前の兄貴じゃねぇ。  海水で顔を洗い、口のなかに入ったらしい潮水をぶぺっと汚く吐き出すと、柳は口元を拭いながらふらふらとやってきた。  大層なご尊顔が酷い有様だ。いや、アンニュイとも言えるかもしれないけれど。  納得のいかないことに、柳夕世という男は稀に見る美男子だった。黙っていれば刃物のような鋭さを持った色男であったが、口を開けばあれだ。もったいない、というよりも、それでこそ神!これこそが平等!と拍手したくなる。  携帯灰皿で煙草を揉み消すと海に背を向ける。足をすくわれる砂浜をえっちらおっちら歩きながらほんのすぐそこの下宿へ向かった。徹夜明けの酔っ払いには白い砂浜も、台風一過の青空も眩しすぎる。  海岸には昨日の豪風雨で巻き上げられたワカメだとかゴミだとかが転々と打ち上げられていた。ワカメが電線に引っかかるほどの威力だったわりには、ボロ屋が倒壊を免れる程度の暴風だったらしい。  どさっと重い音が背後から聞こえた。振り返ってみれば、柳が綺麗に転げている。 「あ〜ぎもちわる……」  はは、ざまぁ。てか俺のスウェットの裾掴んでんじゃねぇよ。それ本当に綺麗な手?  柳の手を振りほどくために俺もアクロバティックに片足を振り回してみるけど、いかんせん足場が悪い。 「ぐぇ」 「あ、悪い」  倒れた俺の下敷きになった柳は濡れた髪も相まって入水自殺に失敗した人みたいな顔をしていた。 「ひどいよ、にぃサン〜」  涙目のこいつを見たところで今更何も思うところはない。そのままごろりと砂浜に寝転がり大の字になってみる。伸ばした手の先にワカメが触れたので、手にとって隣の柳の頬をぺちぺちと叩いてみた。 「俺、東京帰るわ」 「なにそれまたぁ? もう300回は聞いたよ。にぃサン結局いつも帰らないじゃん。ひょっとして俺のこと好きなの? ありがとう、俺も愛してる」 「言ってねぇし。おいくっつくな」  ぐだぐだと張り付いて離れない大男が重いしうざいし鬱陶しい。胸元にあたる湿った髪はアッシュが入った柔らかい色をしている。やけに白い肌にははらはらと砂粒がくっついていた。首筋の小さなほくろが色っぽい。無防備にさらけ出されたきめ細かい肌を見ていれば、その気はなくとも変な気持ちになってしまう。それはあくまで好奇心に他ならない。超えてはいけない、ギリギリの境界である。  だから俺はただ空を飛ぶトンビを見上げることにした。 「にぃサン風呂上がりみたいな匂いしてるね」 「気のせいだと思うよ」  トンビの声を聞きながら、べったりとくっついてくるこの美しい男が、初めて顔を合わせたその日に言った言葉を思い出す。  俺、ゲイだから、と。  男はひどく整った顔で笑うのだった。
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