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しばらく柳は下宿を空けていた。立て込んでいる、とだけ言って帰らなくなったから大学が忙しいのだろう。この間波多と会っている時に鉢合わせした時も他大学に用があったと言っていたし、研究も大事な時期に差し掛かっているのかもしれない。俺は大学時代、学校に寝泊まりするほど真面目に勉強してこなかったから、何をしているのかなんて想像もつかないが。
柳も就職すればここから出ていくのだろう。酒とセックスばかりの阿呆だけれど、柳は頭と顔はいい。それに魚だって捌けるし、それなりの炊事能力をすでに持っている。どこに放り出されたってうまくやっていけるはずだ。ヤる相手にだって困らないしな。
この年になれば周りの友人は結婚したり子どもが生まれたりと人生の節目を迎えている。恋人はいないのか、結婚の予定はないのか。式に出る度、再会した友人たちは俺にそう言う。その度俺は残念ながらって、笑って誤魔化した。柳はただの一度も、恋人の有無も俺に聞いたことがなかった。
踏み込みすぎず、離れすぎず、それでも毎日を隣で生活する他人がいるというのは、俺のなかでささやかな安寧を作っていた。それがなくなってしまうのは、少し寂しいことだと思った。
毎日のように飽きずにヤってヤって、ヤりまくって、とっかえひっかえ同じ相手とは寝ずに爛れた性生活を過ごしていた柳はどうなるのだろう。いずれは俺と同じ寂しさを味わうのだろうか。それとも、誰か一人を好きになって一緒に人生を歩むのだろうか。別にそれが女だろうが男だろうが本質は変わらない。
もしそうなれば、それはとても素晴らしいことだし、俺は羨ましいと思う。
定時上がりで下宿に帰れば、玄関前には見たことのない車が停まっていた。もしかして新しい入居者が入るのか、と一瞬頭をよぎったが大家さんからそんな話は聞いていない。おそらく柳が帰っているのだろう。友人にでも送ってもらったのか、もしくはまた誰かを連れ込んでいるのか。連絡ぐらい寄越してくれたらいいものを。
狭い駐車場に車を停めてから下宿の玄関まで歩いたところで、なんとなく嫌な空気を感じ取った。正直今日は疲れていたし、できることならすぐにでも風呂に入って飲みたかった。それに柳が帰ってくるとは思っていなかったから酒くらいしか買ってきていない。自分のために飯を作るほどの労力を割こうとは思えなかった。
玄関扉に手をかけて少し迷う。同居人のセフレと鉢合わせするくらいなら、疲れた体で煙草でも買いに行くほうがマシだ。時間を潰そうと玄関に背を向けた時だった。
家の中から怒声が聞こえた。
ぴたり、と立ち止まる。今のは柳の声じゃない。一瞬いろいろな妄想が浮かんだけれど、どれもパッとしなかった。例えば柳の本命彼氏が浮気に気づいた、とかさ。しかし今の柳が本命がいるほどの恋愛脳だとは思えなかった。
気にはなったけど、他人様の事情に深入りするのもよろしくない。柳が俺に過度に干渉しないように、俺だって柳とは適切な距離を保つように気を付けている。それにこの怒鳴り声だって、面白がるような話ではない。
相変わらず男の怒鳴り声が外まで漏れて聞こえてくる。聞いているだけで身が竦むようなその声に、今度は縋り付くような泣き声が重なった。
俺の足は地面に張り付いたように動かなくなった。
やめろよ。さっさと煙草でも買いに行けよ。そしてレジの横に置いてある10円ガムでも柳の土産に買えばいい。あいつの分の発泡酒も買い足せばいい。何事もなかったように下宿に帰って、いつもみたいにゲラゲラ笑いながら酒盛りをするんだ。
俺には関係ない話だろ。首なんて突っ込むんじゃない。口なんて出すんじゃない。そんなのただの野次馬だ。
ボロ屋の床を踏み抜くような重い足音が近づいてくると同時に、痛々しい泣き声も一層はっきりとした。
「いい加減にしろ夕世!」
一際大きな怒声が聞こえると同時に、怒りに任せた勢いで玄関の扉が開いた。ぎこちなく振り返れば、チェックのシャツによれたジーンズという秋葉原でも歩いていそうな地味な男が顔を真っ赤にして立っている。一瞬俺に目を向けたが、青筋の浮いた顔で睨みつけるとそのままずんずんと歩いて行ってしまった。俺は男の尋常じゃない雰囲気に気圧され、肩をぶつけないように避けることしかできなかった。
去って行く男を呆然と目で追っていれば、顔を真っ青にした柳が転げるように出てきた。涙で顔をぐちゃぐちゃにしている。裸足のまま男を追って、必死に何か弁解するようなことを口走っていたが、男は振り返ることもせず車に乗り込むと駆け寄ろうとする柳を無視して発車させた。
「っ……、」
俺はしゃくりあげる柳と遠くなる車を交互に見ては呆気にとられていた。柳はしばらく項垂れていたが、やがてよろよろと戻ってくると俺には目もくれずに下宿へ入っていった。
緊迫していた空気に落ち着いた波音が聞こえてくる。心臓がやけにバクバクと音を立てていた。あんな柳は見たことがない。俺はどうしたらいいのかわからず立ち尽くしていたが、どうしようもなく下宿へ戻った。
居間の片隅で、大きな男は小さく縮こまっている。部屋着のハーフパンツはもはや俺のものか柳のものかわからず、手に取ったものを着ていた。長い脚を折って膝を抱え、突っ伏した顔からは表情はうかがえなかった。柔らかい髪がはらりと腕にかかっている。
「あ、あー……えっと、あ、今日ヒラメがすげえ安くなってたんだよな! 今日、ヒラメの刺身でいいか? 漬けにして丼で食べようぜ。茶漬けもしたいから出汁もほしいな。俺、今から買い出し行ってくるから、何か必要なもんあったら買ってくるけど」
空元気が痛い。俺アホみたいに空気読めてないよな。悪い。
「つーかお前、帰ってくるなら一言入れろよ。俺今日、普通にカップ麺で済ませるとこだったわ! はは」
いや、黙れよ。もう少しマシなことを言えないのか。そんなんだからいつまで経っても取引先まで連れてってもらえねえんだよ。
「……じ、じゃあ俺、行ってくるから……一時間くらいで帰るか……」
玄関へ引き返そうとしたら、ワイシャツの裾がひっかかった。見れば柳が顔を上げずに手だけを伸ばして俺の袖をつかんでいる。
窓から差し込んだ夕日は柳の色素の薄い髪をオレンジ色に染めていた。きらきらと光っている。力なく俺のシャツを掴んでいた柳の手が滑り落ちて手首に触れる。ほんの少し冷えた指先が微かに肌を撫でていった。手を離されても、俺は動けなかった。縮こまった柳から目を離せなかった。
鳥が一斉に電線から飛び立っていくばたばたとした羽音が聞こえる。落日の光に目を細める。カラスの鳴き声が聞こえた。
「……さっきの、誰だったんだ?」
いやに掠れた声だ。
空中を浮遊する埃が差し込む夕日にきらきらと光る。柳の吐息のような声が空気を揺らした。
「…………兄ちゃん」
さきほどの神経質そうな地味な男を思い出す。年は俺と同じか、少し上くらいのように感じた。柳とは似てもつかないタイプで、兄だと言われても正直まったくピンとこなかった。
「兄貴がいたのか」
「……三人」
「三人も。末っ子?」
俯いたまま、柳がこくりと頷いた。男兄弟4人じゃ、そりゃお母さんは苦労をしただろう。いくらこんなに顔の綺麗な男だろうが、でかいし中身は小学男子のようだし、脱いだ服はそのままにするし靴は揃えないしな。
それに柳は正月も帰省しなかったような男だ。家族の話はこれまでにただの一度もしたことがない。さっきのがただの兄弟喧嘩とは思えなかった。柳と家族の間に何かしらの確執があるであろうことは察しがついていた。
「俺、すっごい可愛がられてたんだよね」
ゆらりと柳が顔を上げた。鼻をすすって、斜め下に視線を落とす。長いまつ毛の上に涙が乗っかっていた。
「みんな年が離れてたから、俺が小学校に上がる頃にはもう制服着て中学とか高校に通っててさ」
膝を抱えたまま、柳はぽつりぽつりと話し始めた。
「物心ついた時から怖い時に抱き上げてくれたのも、心細い時に一緒に寝てくれたのも、手を繋いでくれたのも、全部兄ちゃんだった」
年の離れた小さな弟はかわいかっただろう。そうやって、柳は愛情をもらっていた。温もりも優しさも、きっとお兄さんに教えてもらったのだ。
「気づいたら男しか好きになれなくなってるし。でも俺にとってはそんなの当たり前の話だったし」
親離れしてもなお、母のような温もりを求めてしまうように。男の体温を求めている。ただ温もりを求めるだけじゃない。そこには確かな性愛が存在している。俺には理解できない。
「でも、バレてさ。男と遊んでるの」
結果的に追い出されちゃった、と柳が苦笑しながら言った。
そうだ。こいつが下宿に来たのは進学のためじゃない。浪人生時代に柳はここにやってきた。
「これは下の兄ちゃんたちの配慮なんだよ。あのまま実家にいたら俺、上の兄ちゃんに何から何まで監視されるようなことになってたと思うから……でもやっぱり、」
はらり、と涙が落ちていった。
「寂しいな。俺は兄ちゃんのこと、大好きだから」
きっと柳と同じように、柳の兄だって今でも弟のことが可愛い存在なのだろう。じゃなきゃ、こんなところまで来やしない。
柳は自分がどれだけの愛情を注いでもらったかをわかっている。同じくらいの情を家族へ向けている。捻くれず、与えてもらったもので満たされて、そして相手を信用した。
綺麗だな、と思った。
認められたいと願い、それでも簡単には認められない心境を理解して、絶念しない姿は、綺麗で愛しい。
だから、慰めるつもりで言ってみた。好きなんだよね、と。
慰めるって、誰が誰をって話だよ。自虐するように自分を笑う。
「好き、なの?」
「そ」
「誰が? 誰を?」
「俺が、男を」
「……は? なにそれ、マジ?」
「そう、マジマジ」
ポカンと口を開ける柳の顔は圧巻だった。
まつげの上に乗っかった涙がきらきら光ってる。
いいなぁ、きらきらしてる。お前は可愛いよ。若くて猪突猛進で、愛嬌があって。アホでバカで、愛おしい。誰かを愛せる人間は素敵なものだよ。
惨めに縮こまって泣いていた男に手を伸ばす。ちょっとした揶揄いのつもりだった。可哀想でかわいい男への冗談混じりの慰めだ。
目元の涙を拭い、半開きになった唇に口付けした。しょっぱい味がする。微動だにしない男の口に舌を滑り込ませ、隙間を塞ぐように絡めあう。
何をしてるんだろうな。
俺はお前を好きじゃないし、お前も俺を好きじゃない。だいたい本当に好きだったらこんなことできねえし。
きっと人は誰だって手の届かないものがほしくてたまらないし、自分にはないものを持ってる者が憎くて愛しい。
銀糸が引いて、西日に光った。離れていった唇の柔らかさは久しく味わっていない感覚だった。
目を見開いて柳が俺を見つめる。舞台で笑う大女優より柳の瞼は煌めいていた。ヘーゼルの入った瞳が透き通って美しい。呆然とする柳に俺はふっと息を吐きだして笑った。
「俺は柳を同士だなんて思ったことはない」
「……なんで?」
「俺はゲイだし、お前もゲイだけど、俺は誰かのことを好きになれないみたいだから」
「……そんなのわかんないじゃん」
できないものはできないのだ。どれだけ時間があったところで、俺は柳と同じ土俵に立てることはないだろう。
正直、似たもの同士だと思っていた。柳に誰かを好きになる感覚が備わってるとは思わなかったから。ただ体だけを求めているように思えたから。でも違う。柳は誰かを愛せる人間だ。俺はどうやらそれができない人間のようだった。
だから、付き合った男ともセックスばかりしたし、ヤらなくなったら振られてしまった。せめて体の関係だけでも続いていれば振られずにすんだのかもしれない。そしたら、こんな寂しさだって味わずにすんだのかもしれない。
なのにどうしてか、セックスすらできなくなった。
身体を触られることを何故だか拒絶するようになってしまった。付き合っているはずの男に求められる度、触られる度、なんだかよくわからない感情がもやもやと渦巻いて、気がつけば手を押しのけていた。気持ちいいことは好きだ。これまでにそんな気持ちになったことだってなかったのに。
嫌いになったわけじゃない。もとから好きだったのかと言われても、そうだと迷いなく応えることはできない。だけど、少なくとも情は湧いていたと思う。好意を寄せられるのだって、悪い気はしなかった。
「あの男……」
「あ?」
「誰? にぃサンのこと名前で呼んでた」
深涼、と呼ぶ波多の声が蘇る。なんだよ、聞かれてたのかよ。
「友達だよ」
「……にぃサンのこといやらしい目で見てた」
見てねえよ。そんなわけないだろ。
「したことあるでしょ、あの男と」
「……」
それを聞いて、いったい何になる。
あいつと俺が昔付き合ってたって、それを知ってどうするんだよ。もう付き合い切れないって振られたのは俺だ。好きになれなかった。どうしても、好きになりたいのにダメだった。情が芽生えれば芽生えるほど、俺は波多を受け入れることができなくなった。
西日に頬をオレンジ色に染めて、柳は俺の腕をぎゅっと掴んだ。沈む直前の太陽の熱はぬるま湯みたいに気持ちがいい。
「俺はたぶん、にぃサンのこと――」
言い切る前に垂れかけてる柳の鼻水を袖で拭った。む、と目をつぶった柳が口ごもる。続く言葉は何だっただろう。聞いてはいけない気がした。
唇に残る柳の柔らかい舌の感覚を確かめるように舐めとった。この居心地のいい他人を俺はどうしたら失わずにいられるだろう。自分本位な生き方ばかりしているから、俺にはわからないよ。俺がお前のことを好きになればいい? 好きになって、セックスできればいい?
残念な話だね。そんなことしたくない。
俺はこのままでいたいんだ。無理矢理、理解しようだなんて思わなくていい。変に手を繋いで同じ道を歩かなくたっていい。他人のまま、夜は飯を食いに柳の待つ下宿に帰りたい。
柳は強い力で俺の腕を掴んでいる。その力の強さとは裏腹に、俺を見つめるその目はどこかポカンとしたような戸惑いが未だにあった。
微苦笑して柳の髪をかき混ぜる。
「買い出し、一緒に行くか?」
ぱち、と瞬きをすると柳は未だに呆けた顔のまま、力の抜けた声で「うん」と呟いた。
友情は芽生えない。愛など育まれない。そんなものは海に流してあっけらかんと笑えばいい。
いつだって変わらない、俺たちはただの隣人だ。
了
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