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最終話 心機一転のラザニア
コックコートに身を包んだコレットは、慌ただしいキッチンの中にいた。
シェフに差し出された皿の上にあるクリームソースをフォークですくって味をたしかめる。
「牛肉ステーキに合わせるクリームソース?」
「えぇ、そうです」
「ブルーチーズはあと十グラム。生クリームももう少しだけ増やして濃厚に」
「わかりました」
シェフたちはてきぱきと指示を出すコレットを意外そうに目で追いかけた。
「コレットさんが来てから味の深みが出ましたよね」
「いままでどうしてキッチンに立たなかったんだろうな?」
その会話を背後に聞きながら、コレットは鍋から茹でたサワラを皿に取り出してソースの指示を出す。
ディマンシュの広いキッチン内で働いている間は、何も考えなくて楽だ。
匂いも、味もはっきりと感じ取れる。
私は大丈夫。
「コレットさん、ちょっと来てもらえるか」
コレットは自分に暗示をかけるように心の中でつぶやいて、ベテランシェフの呼びかけに笑顔で答えたのだった。
無事に閉店時間を迎えて店を出ると、聞き覚えのある声に呼び止められた。
暗がりから淡い街灯に照らされて姿を現したのは和坂だった。ブラウンのスーツはまるで仕立てたばかりのように皺ひとつなく、とても仕事帰りには見えなかった。
「久しぶりだね。コレット」
「和坂さん」
和坂はにこやかに手を上げて近づいて来る。
コレットは疲れをおくびにも出さずに、にこりと微笑んだ。
「お久しぶりですね。これからディマンシュに用事ですか?」
「用事は終わったよ。ちょっと意外なものを見たから、この時間まできみを待っていたんだ」
「なんでしょう?」
「きみがキッチンに立っていて驚いたよ。それは社長の意向なのかな?」
「いいえ、私がお父様にお願いして、無理を言ってキッチンに立たせてもらったんですよ。少しでも腕を鈍らせたくありませんから」
コレットの言葉に、和坂は少し困ったように微笑んだ。
「それはいつか例の洋食屋に戻るつもり、ということかな?」
「そうです」
きっぱりと言い切ったコレットに、和坂は冗談だろうと言いたげに頭を振った。
「コレット……きみはあそこで働くべきじゃない。僕は社長にお願いして、きみが広報部で働けないか掛け合うつもりなんだよ」
「なぜです? 私は一度も広報部に行きたいだなんて言ったことはありません」
コレットは不満を隠すことなく和坂に尋ねると、和坂は優しく目を細めた。
「僕の部下になってもらった方が、きみはもっと自分の好きなことができるだろう? キッチンに立つだなんて、きみのやるべきことじゃない」
「役職をもらって特に仕事もせずに好きな物を食べて、好きなことをして、そんな人間に戻れと?」
コレットは怪訝そうに和坂を見た。
悠に「あまり近づかない方がいい」と言われたことを思い出して、さり気なく距離をとる。
「あなたは私を何もできないお人形にしたいんですね」
「そうじゃない。きみの意思を尊重したいだけだ」
「私の意思を尊重したいなら、どうして私の知らないところで話を進めようとするんですか。和坂さんにはたくさんお世話になった恩がありますけれど、だからと言ってそれに従うつもりはありません。私はここで力をつけて、あの店に戻ります」
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