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何を言わなければならないかわかっていた。
間違っても、付き合ってる人はいないが戸籍上の妻がいる、なんて言わない。
言ってはいけない。言うべきじゃないことは流石に僕もわかる。
それなのに、いないです、と言いかけた口が止まってしまった。
それを言ってしまったら、仮の妻と本当に離婚するかもしれないんだと、仮の妻が本当にいなくなるんだと、そう考えたら躊躇を覚えてしまった。
―――いなくなってほしくない。
どういうわけか、そんな気持ちが僕の心を揺さぶった。
「…実は、いるんです」
僕はもしかすると大バカ者かもしれない。
いや、今までの人生を振り返ればやはり大バカ者だといえる。
十五年も引きこもって親のすねをかじりニートをしてきた男だ。大バカというより、情けない人間だ。
でも彼女は、仮の妻は、そんな僕を丸ごと受け止めてくれたように…、…ん?…いや、違うな。
彼女は金さえもらえれば良かったんだった。
僕の容姿や現状と得られる金を天秤に諮り、迷わず金を選んだ人だった。
別に受け止めてくれてたわけじゃなく対価に見合った仕事をしてくれていただけだった。
けれど、それを踏まえたうえでも、僕は彼女といると居心地がいいんだ。
浜口さんが「そうですか。なんか、…すみません」と謝りながら財布を出している。
すぐに察する。彼女はもう帰るつもりなんだ。
「えっと、今日はもう帰ります。またお店には来てくださいね」と無理に笑ったような表情をする浜口さんに、僕も申し訳ない気持ちになって頭を下げる。
千円札だけ置いて喫茶店を後にするその背中を見送りながら、僕は長い長い息を吐きだした。
終わってしまった。
これで本当の本当に浜口さんとは終わってしまった。
けど、不思議と後悔がない。
浜口さんとの進展のチャンスを踏み躙ったけど、これで良かったんだと妙な安心感まで覚えている。
そのまま青い空を見上げて思い出すのは、どういうわけかにっこりと笑う仮の妻で、どういうわけか会いたくなった。
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