この世は夢幻

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 朝九時過ぎ、布団にくるまって愚図愚図していたエイジは、部屋のドアが開く音に息を呑んだ。  入ってきたのは、顔は老婆、首から下は若い女性という姿の、素っ裸の女。  女は剥き出しの乳房を揺らしながらベッドに歩み寄り、エイジに手を差し伸べた。  エイジは枕元の置き時計を掴み、女の頭部に叩きつけた。ぎゃっ、と呻いて女が崩れ落ちる。血のついた置き時計を放り投げ、彼は部屋を飛び出した。  クリスマスの街は小雪がちらつく天候だったが、人出で賑わっている。  見てしまった。とうとう幻覚を見てしまった。  心の中でくり返しながら、エイジは早足に大通りを歩く。  僕は病気なんだ。治療しなければ。今日はクリスマスだけど、心療内科は営業しているだろうか?  横断歩道を渡りきった直後、金切り声のようなブレーキ音が聞こえた。振り向いたエイジは、向かいの歩道の人波を目がけて、大型トラックが突っ込んでいくのを目の当たりにした。次々と悲鳴が上がり、人々が人形のように宙を舞う。  トラックは街路樹に激突して停止した。運転席から降りてきたのは、八十は過ぎていると見受けられる白髪の老爺。にやにやしている。  何者かが老爺に走り寄った。太鼓腹の男性警官だ。 「いけませんねえ、人を撥ねては」  警官はにこにこしている。 「トラックは車道を走行するために作られた乗り物であって、人を撥ねるためのものではありませんよ。交通ルールは遵守していただかないと」 「でも、私は高齢者ですよ?」  老爺はにやにやしている。 「どうせ無罪でしょう、何人撥ねようが」 「いかにも。あなたは社会的弱者ですから、罪を犯しても、社会的強者が尻を拭ってくれます。いやあ、しかし、なんですなあ。素晴らしいですなあ、弱者に優しい国というのは。ははは!」  老爺と警官の笑い声が重なる。エイジは身震いし、道のりを急いだ。  心療内科は営業していた。 「保険証を忘れた」と受付で申告すると、サンタクロースのコスプレをした受付嬢は鼻で笑った。保険証を忘れたことについてはなにも言わなかった。  待合室で五分ほど待つと、名前を呼ばれた。名前を呼んだ女性看護師は、診察室に入るエイジが彼女の前を通るさい、彼の耳元で「保険証を忘れた」と口真似でささやいた。そして、シンバルを叩く猿の玩具のように両手を打ち鳴らして大笑いした。  診察室はエイジの自室だった。アダルト雑誌を堂々と並べてある書棚、引っ越し以来封じられたままの段ボール箱、稼働音がやかましい加湿器。そして、頭蓋骨を柘榴のようにかち割られた素っ裸の女の死体に、血が付着した置き時計。医師は理知的な顔立ちの中年男性で、ベッドに腰掛けている。 「どうぞ、お座りください」  医師はにこやかに勧めた。エイジはなにも敷かれていないフローリングの床に正座する。目の前にはスナック菓子の食べ滓が落ちている。  部屋は毎日掃除をしているのに、なぜ? まさか、これも幻覚?   エイジは堪らない気持ちになり、早口で捲し立てた。 「先生、助けてください。この世界は狂っています。人生なんて夢みたいなものじゃないですか。幻覚はもちろん幻覚で、幻覚ではないのも幻覚。そうでしょう? だのにクリスマスごときに浮かれて、阿呆だ。おかしいですよ、夢幻なのに。どうせ百年後にはみんな死んでいる。どう考えても狂っていますよ。もう手の施しようがない。寛容? いかれている。僕は貧乏人なんだ。断じてやっていない。追い詰めないでくれ。昔に戻りたい。……いや、そうじゃない! 違うんです、違うんだ。いや、それとも? まさか! でも、分からない。なにもかも分からない! 先生、助けてください!」  エイジが訴え終わると、医師は両手を打ち鳴らし始めた。「保険証を忘れた」の女性看護師とは異なり、品のある叩き方だ。  やがて拍手をやめ、握手を求めるように右手を差し出す。満面に湛えられているのは、カルト宗教の教祖じみた、慈悲深くも威厳溢れる微笑み。 「今のお話を聞いてはっきりしました。あなたは紛れもなく『こちらの世界』の住人です。――ようこそ、『こちらの世界』へ」  歓迎の言葉が贈られたのを合図に、部屋に続々と人が入ってきた。大型トラックで歩道に突っ込んだ老爺。太鼓腹の男性警官。サンタクロースのコスプレをした受付嬢。「保険証を忘れた」の女性看護師。 「いやあ、めでたいなあ、『こちらの世界』の住人が増えて」  医師はエイジの手を握り、激しくシェイクする。入ってきた者たちはエイジを取り囲み、やかましく拍手を打ち鳴らす。息絶えたはずの素っ裸の女さえ、血まみれの置き時計を小脇に抱えてその輪に加わっている。 「あなたにとって最高のクリスマスプレゼントになりましたね。心からおめでとう!」
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