霞んだ名前

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それは教授である男の手に握られていた。世界人口を激減させてしまうであろう、新型ウイルス。治療法は既に確立してある。世界中への感染が確認された後、この論文を発表すればどれほどの注目が集まるだろうか。どこかでクラスターを発生させ、そこから世界各地に拡散する。自分が犯人だという証拠などどこにも残させやしない。確固たる自信のなか男は微笑む。 これは名誉に目が眩んだ男の物語である。  大学卒業という肩書を手に入れるためだけに、授業を受けているくだらない学生。指導が緩いと言われているゼミに集まる馬鹿共。今日も中身のない卒業論文を提出してくる学生。中身が薄い、研究が足りていない、情報が少ない、情報元が書かれていない。指摘すると不細工を全面に出した表情で背中を見せていく。それが通常だった。  学生たちが帰ったのを見計らって、教授室の奥に隠したもう一つの部屋に入る。新型ウイルスが凍結された試験管を覗き込んだ。 「これで世界を壊して俺は研究者としての地位を確立させる」  口の端が吊り上がった。一年以内にこの世界は恐怖のどん底へ陥るだろう。気持ちが高揚していた。  半年後、そのウイルスはアジアで流行していた。だが、一つ不測の事態が起きた。男の家族も感染者となったことだ。すぐさま隔離されたが、治療法が成立していないため既存の治療法を活用していくしかなかった。ここで男はある選択を迫られていた。今すぐ研究を公表し、家族を助けるか、それとも世界中にウイルスが拡大し、より注目を集められる時になるまで待つかのどちらかだった。悩む間はなく、二者択一だった。  三年後、世界中で流行したそのウイルスは自分が発表した研究をもとに治療薬も作られ、感染者数はみるみる減っていった。家族を代償にして得た名誉は大きかった。だが、その後大きな成果を出せなかった男はときの人となり、あっという間にその名前は世界から忘れ去られた。
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