三月の逆転ホームラン

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 本棚の中に所狭しと並べられた塾の問題集。参考書なども合わせて総数十冊以上はあるだろうか。その中の一スペースにノートが教科ごとにまとめられている。  一冊抜いてパラパラとめくる。 「〇〇中過去問」「R4を取るために」  ページ上部にタイトルのようなものが書かれておりぎっしりと数式が書き込まれている。――俺、こんなにやったのか。それと同時に、先程の母の言葉が耳に蘇る。 ――あーあ、お金と時間の無駄だったわね。 「これも、無駄だったんだよな」  無駄だった。寝る間も惜しんで問題と格闘した時間も無駄。  遊びの誘いを断ってひたすらシャーペンを動かした時間も無駄。  塾代も無駄。  野球の誘惑を断ち切ったのも無駄。  自室に缶詰になっていた時間も無駄。  この問題がわからないと聞いたときに熱心に教えてくれた兄の時間も無駄にした。  十冊ほどはあるのではないかというノートももはや無駄なのか。ヤバい、と思った時にはすでに遅かった。かろうじて持ちこたえていたしずくが吊りがちの目尻の堰を切って頬を滑り落ちる。  みんなを巻き込んで。みんなに協力してもらって。高い金を払わせて。それは、全て俺の合格のためだった。  母が塾の送り迎えをできたのも、父が塾代を払ったのも。兄がわからない問題を熱心に教えてくれたのも。  パタ、パタとかすかな音を立ててノートの数式に点々と染みがいくつもできる。 ――あーあ、お金と時間の無駄だったわね。  散々協力してもらったのに、受からなかった。俺は……みんなの時間を、無駄にしたんだ。 「最低じゃん、俺」  俺の胸に黒い感情が渦を巻く。視線を上げると開きっぱなしのノートが視界に入った。ああ、何もかも無駄だ。そう思うと、途端にむしゃくしゃしてきた。  クソ。どうせ無駄になったんだ。衝動的に俺はノートを乱暴に掴むと力を入れて引きちぎった。努力が詰まったノートが無惨にも破壊されていく。  どうせ無駄になったんだ。クソ、クソ。表紙も掴んで破り捨てる。試験会場を後にする時には感じなかったような悔しさが熱い塊のように突き上がってくる。  しばらく俺は破り続け、ノートはA4サイズの数十枚の紙に姿を変えた。それを更に細かくちぎっていく。 「っ」    鋭い痛みを感じて指の間を見ると赤い線ができていて血がにじみ出てきた。俺の感情を理不尽にぶつけられた紙の逆襲。最悪だ。――そんなことをすれば、いつか手を切ることなどわかっていたはずなのに。  もう何をする気にもなれなくて、俺は机に突っ伏した。そのうちに瞼が重くなってきて、外から聞こえる車の音もやがて聞こえなくなった。  ガチャリと扉が開く音で目が覚めた。母が入ってきたのかと反射的に身を固くする。薄目を開けると窓の外はすでに漆黒の闇に染まっていた。 「うぇいしょ、と」  ドサッと荷物を置く音。声変わりを終えた低い声で兄だと分かる。どうせ受験結果は母から聞いているのだろう。今起きると気まずい。俺はひとまず狸寝入りを決め込んだ。 「なんじゃこりゃ」  つぶやきとガサガサと紙をかき集める音が聞こえる。まずい、それは俺が苛立ちに任せて破り捨てたノートの――。  衣擦れと兄が立ち上がった気配を感じる。こちらへ来るのではないかと肩に力が入ったが、足音は階段の方へと遠ざかった。 「貴翔(たかと)、飯できたってよー」  しばらくして兄の声が聞こえた。この状況で家族と顔を合わせるのは気まずいが、さすがに飯を食わないわけにはいかない。  俺は平静を装って階段を下りリビングの扉を開けた。食卓にはすでに父も母も兄もついており、焼き魚が良い匂いをさせながら湯気を立てている。  いただきますと皆であいさつをし食べ始める。いつもは積極的に話を振る俺だが、今日に限っては黙々と箸を進めていた。静まりかけた空気を破ったのは兄だった。 「あー、そういえば今日学校行くときめっちゃ混んでたんだけどさー、爺さんが乗ってて立ってたんだよ。で、前に座ってる高校生ぐらいの男子がどうぞーって席譲ってて爺さん座る所ないからいいだの言ってたんだけど、『いや座るとこあるんで』って言って隣の友達っぽい奴の膝の上に平気な顔して座ってたのはマジで笑えたわ」  そう言って兄はクスクスと思い出し笑いをした。俺も、つられて本日初めて頬が緩んだ。良かった、いつも通りの食卓が戻ってきた――と思ったが母の険悪な声は談笑を凍りつかせた。 「はあ? あんた何言ってんのよ。今言うこと? 知ってるくせにほんっと無神経ね。」  どの口が言う。俺は吐き捨てそうになるのを必死にこらえた。無神経なのはあんただよ。兄貴が結果を知っているんだとしたら、いつもと同じように接してくれているなんて最高の気遣いじゃないか。 「貴翔、さっきはひどいこと言って悪かったわね。受験勉強でつけた知識は決して無駄にはならないわ」  どうせ、どこかから引っ張ってきた例文だろう。俺の反応で自分の対応がNG対応にぴったりと当てはまっていることに気づき慌てて検索したに違いない。  あんた、そんなこと思ってないんだろ。  母さんはいつも本心と違うことを言うときは絶対に相手と目を合わせない。俺が見つめてみても目をそらすということは、目を見て言い切れる言葉ではないのだろう。  第一、俺から話を持ち出さないということは触れてほしくない話題だということをどうして分かってくれないのだろうか。それでも自分から話すならせめて相手の目を見て話せよ。  目をそらして放たれたいかにも例文そのままの言葉に俺の気持ちは一層冷える。 「なあ、聞けって。そんでその乗られたやつどうしたと思う」 「ちょっと、あんた。貴翔のことも考えなさいよっ」  兄の眉がぴくぴくと動いた。俺とよく似た一重の吊り上がった切れ長の目を母に向けて言う。 「あのさ。考えるのは母さんだよ」  兄は今年で中三。凄みも混じった低い声に、今まで一言も発しなかった父の頬がかすかに引きつる。兄は大きく息をつくと、さっきの話の続きをした。 「そんでさ。その乗られたやつどうしたと思う?」  腹は立つだろう。でも、ここで母を攻撃したらますます雰囲気が悪くなる。人相は悪いが、見た目とは裏腹に優しくて細かなところまで気が回る兄ならではのフォローに俺は話題を変えるチャンスとばかりに食いついた。 「えー、後で殴り合いにでもなったんじゃねえの」 「ははははは、そうなったら面白いなー。」  いつもと同じようなゆるゆるとした食卓の時間が戻ってきたように思えた。しばらくして飯を食べ終わった俺は、ごちそうさまと言って席を立ち、二階への階段を上った。心なしか足取りが軽くなったように思えた。 「もう八時か、そろそろ風呂入っとくかな」  俺は着替えを持つと階段を下り、先に風呂入るわーとリビングに声をかけて洗い場でシャンプーを泡立て髪を洗う。  目の前の鏡の中から、目の下に薄い隈ができた目つきの悪い男が俺を睨みつけていた。熱めのシャワーで体を洗い流し、俺は湯船に身を沈めた。 「あぁ……」  これまた熱い湯に声が出る。受験勉強に追われていた時は風呂もカラスの行水だったが、久しぶりに熱い湯に浸かることができて疲れが湯の中に溶けていくようだ。  浴槽の縁に頭を乗せてしばし放心する。  俺を現実に引き戻したのは、リビングから聞こえてくる兄と母が言い争う声だった。 「ねえ、瑛人。さっきからあなた何考えてるのよ。無神経にも程があると思わないの」 「それは俺の台詞だよ。母さん、貴翔に何言ったんだよ。母さんも人間だから責めたくなる気持ちは分からなくもないよ。  でもさ、貴翔が今一番触れられてほしくないだろう話を自分から出して、それで心にもない上辺だけの謝罪して説教してくるなんてさあ。母さんこそ無神経にもほどがあるよ」  そこに父の声も重なった。 「なあ、美咲。お前が受験に打ち込んでいたのは分かる。でも、一番悔しいはずなのは貴翔なんだ。悲劇のヒロイン気取りでそのまま感情ぶつけるなよ。」 「悲劇のヒロインで何が悪いのよっ。だいたい、あんなに受験に協力してあげたのに親不孝にも程があるわっ」 「ふざけるなっ。親不孝なんて貴翔の前で言えるのかあっ」  やっぱり、ひどいことを言って悪かったなんて一つも思っていないんだ。親不孝だと思っているんだ。  いつもはめったに喧嘩しない父さんと母さんが怒鳴り合いをしている。それだって、俺が落ちたせいだ。家の空気がぎすぎすしているのも、全部俺が落ちたせいなんだ。  ――やっぱり時間もお金も、無駄だったんだ。俺のせいで父さんが汗水たらして稼いだお金を無駄金に終わらせてしまったんだ。 「俺、マジで最低じゃねえか……」  リビングからはもう怒鳴り声はしない。俺は湯の底に沈んでしまいそうな心身をため息とともに引き上げ、出たよーといつもと同じような口調を心がけて言った。  脱衣所で寝間着を着てドライヤーのプラグをコンセントに差し込む。強い風の音が頭の中の思考を吹き飛ばした。  髪を乾かし終えドライヤーの音が消えた瞬間、リビングから声が聞こえ始め一時的に吹き飛ばされたどす黒い感情が脳内に舞い戻ってきた。  久しぶりにゆっくり浸かった熱いお湯だったのに入ったときよりも疲れたような気がして、俺はうつむいて二階への階段を上り始めた。
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