三月の逆転ホームラン

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 しばらくすると、兄も風呂から上がったのか足音が近づいてくる。俺は特に意味もなく勉強机の前に座り、いつもの癖で引き出しを開けて手頃な問題集を一冊取り出した。  一番上にあったノートも手に取り開く。  ――目に飛び込んできたのは、勢いのある字で書かれた「明日は入試当日! 絶対合格するぞ!」という言葉だった。突然激しい感情が湧き上がって胸を突いた。  畜生――っ。  絶対合格するぞと書きながら、全力を出すことができなかった試験。入試会場に向かう母とのやりとりが鮮明に思い出され、俺は紙の逆襲にあったことも忘れてそのページを引き裂いた。 「クソ、クソッ」    ありったけの恨みを込めてページを更にちぎる。手のひらからこぼれ落ちた紙を踏みにじろうとした時、ガチャリと扉が開いた。 「――兄貴……。」 「どうしたんだ?」  いつもと変わらない口調のはずなのに、たまらなく腹がたった。 「どうせ兄貴には俺の気持ちなんて分かんないだろ!」  いけないと思っても、怒鳴り声が勝手に口から飛び出す。 「……え?」 「あ……兄貴は合格したからいいよ。でも、俺は野球をやめてまで必死に勉強したのに、落ちたんだ。1月には学校も休んだのに。それでも、落ちたんだ。今までの時間も。お金も。全部、無駄になったんだよっ」  堪えていたものが耐えきれずに溢れ出した。思わずその場にうずくまる。兄は困惑したように立ち止まっていたが、やがて腰を下ろすと言った。 「――確かにさ。俺は受かったから、貴翔の気持ちが全部わかるなんて安易には言えない。でも、いままでの努力は、絶対に無駄にはならない。」 「試験会場まで行く時、ずっと、ずっと母さんは貴翔なら受かるって言ってた。努力を無駄にしないでね、って。受からなかったらどうしよう。全部無駄になる。それで、頭の中真っ白になって……」  話しながらまた涙が溢れ出した。母の言葉を口に出すと、兄がなんと言おうと全てが無駄になったのは揺るぎない事実なのだということが改めて胸に刻み込まれる。  ――どうせ、兄貴は受かったんだから。 「俺とお前は別人だよ」  兄の言葉に俺は顔を上げた。 「俺とお前は兄弟だけど、別人だろ。俺が受かったからお前が受かるとは限らないし、落ちたからと言ってお前も落ちるとは限らない。」 「でも……。お金と時間を無駄にしたのは、間違いないだろ……?」 「そんなわけあるか。毎日あんなに勉強したんだ。成績は勉強したら確実に上がる。中学受験は残念だったけど、それが最終目標なわけじゃないだろ?」  中学受験が最終目標ではない。言葉に詰まった俺に兄は言った。 「だってさ。これから高校、大学に言って最終的には就職するわけじゃん。行きたい学校行って結果やりたい仕事をできれば良いんじゃないか? お前がめちゃくちゃ勉強したのは絶対役に立つぜ。」 「――確かに」  いつの間にか涙は止まっていた。受験は、中学で終わりなわけじゃない。 「とはいってもな」  張り詰めた空気から一転、兄は砕けた口調で言った。 「そんなすぐに切り替えるなんて無理だからな。ちょっとずつ次の目標に向かってけばいいんじゃねぇの。力はついてるはずだから中学で良いスタート切ろうぜ」  そう言って兄は俺の背中をポンと叩いた。 「さて、そろそろ寝るか。――な、久しぶりに一緒に寝ようぜ」  俺が何か言う前に、兄はいつも俺が寝ている二段ベッドの下段の布団に勝手に潜り込み、両腕を広げた。 「来いよ」  兄と一つ布団で寝るのは数年ぶりだろうか。  俺の目標ってなんだろうな。  ふっと疑問が頭に浮かんだが、ほどよく温まった布団に潜り込むや俺は数ヶ月味わっていなかった深い眠りにすうっと引き込まれるように落ちていった。  翌日、受験対策のために休んでいた学校にやっと行き始めることができた。友人たちの反応を心配してはいたが、俺が何も言う前に向こうから切り出してくるような奴はいなかった。  いつも通りくだらない話をし、俺の日常が少しずつ戻ってきた。
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