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灰とハーモニカ
初めてマッチを擦ったのは7歳の時。路地裏には雪が降っていた。
僕はうちを閉め出されて空腹だった。
寒くてひもじくて今にも倒れそうな足取りで徘徊してると、道端に小さくて四角い箱が転がっていた。いかがわしいお店の名前が刷られたマッチ箱。
どうして拾おうと思ったのかわからない。単なる好奇心かそれ以外の理由が、ひょっとしたらただ温まりたかったのかもしれない。同時に気後れもした。僕は火が怖かった。
父さんがことあるごと僕を捕まえ押し付けてくる煙草の火は痛くて熱い、皮膚が焼ける匂いを嗅ぐと胸が悪くなり吐き気を催す。
でも、だけど、背に腹は変えられない。
選り好みをしてたら凍えてしまうと判断し、かじかむ手でマッチ箱をとった。
左手に箱を構え、右手にマッチ棒を掴み、側面で強くこする。
なかなか上手くいかない。失敗続き。
左手に箱を固定し直し、小刻みに震える手で狙い定め、丸く膨らんだ先端を滑走させる。
ボッ、と音がした。棒の先端に暖色の火がともって顔を照らす。睫毛の先に張った霜が溶けていき、頬が火照り始める。マッチ棒に火が点いた瞬間の喜び……初めて何かが報われた瞬間、成功の感触。
あの瞬間、どうしようもなく炎に囚われた。
ちっぽけな僕のさらにちっぽけな手の中で生まれ、紙や建材に燃え移り、やがて家を飲み込むほど育ちゆく火が内包する無限の可能性に魅入られた。
「あは」
僕は生粋の放火魔だ。
道端に捨てられたマッチを手に入れたのは偶然だが、炎に取り憑かれるのは必然だった。
マッチを補充するのは簡単だ。父さんは喫煙者だから家にはマッチ箱がゴロゴロしてるし、安物のライターだって持っている。もしなくても店先でちょろまかせばいい。
初めて火を点けた時の高揚感が忘れられない、あの快感を反芻したい。やがて僕はライターやマッチ箱をポケットに入れて持ち歩き、人目を盗んで火を点けて回るようになった。
僕が住んでる地区は治安が悪くて無人の廃墟がたくさんある、放火する物件には事欠かない。チラシ・古新聞・雑誌・ぼろきれ、色んなものを火にくべた。前の住民がおいてった赤ちゃんのよだれかけも投げ込んだ。
視界に火の粉が爆ぜて炎が荒ぶる。睫毛の先と鼓膜が炙られて熱を感じる。今この瞬間だけは生きてるって感じがする。
家には帰りたくない。
父さんと母さんは毎日薬を打ってラリってる。あの人たちは息子を使い走りとしか思ってない、うっかり視界に入ろうものならまたお酒を買いに行かされる、どのみち飲んで暴れて殴る蹴るの繰り返し。戻ってくるのが遅いと言われまだろくに生えない陰毛を炙られた事もある。
だから僕は身体に一個火傷が増える都度、一件家を燃やすことにした。帳尻は合わせなきゃいけない。
火は僕に自信と自己肯定感を与えてくれた。ポケットにライターかマッチがある限り堂々としていられる、大丈夫じゃなくても大丈夫だと思える。
犯行はどんどんエスカレートしていった。始めた頃は人がいない廃墟を狙ってたのに、一年目にはそんなの関係なくなった。いてもいなくてもどっちでもよくなった。
いや、むしろいた方がいい。
今日もまたアパートが燃えている。着の身着のまま焼け出された住民が泣き叫び、あるいは呆然と立ち尽くして炎を見詰めている。半裸の男の人と女の人もいた。
近隣から集まった野次馬たちの顔は炎の照り返しを受け、煌々と輝いている。
「コイツは全焼だな」
「例の放火犯だろ?まだ捕まんねェのか、警察は何サボってやがんだ」
「よっぽど悪知恵が回るんだろうさ」
「あーあ、また崩れた」
「逃げ遅れたヤツあ気の毒に、家財道具運び出す暇もねェな」
みんなが口々に僕の噂をする、とるにたらない僕をほめたたえている。
何食わぬ顔で野次馬の群れに紛れ、焼け落ちるアパートを瞼に焼き付け、圧倒的な快感に打ち震える。
僕は生粋の放火魔。
炎に巻かれ崩落するアパートを見詰め、現場に放心状態で立ち尽くす被災者を見詰め、身体の底からこみ上げる喜びを噛み締める。
「ッは!」
最前列にさまよいでるや灰が飛んできた。あえて払わず手のひらに受ける。ギュッと掴めば粉々に砕け、またもや風に吹きさらわれていく。
キレイだなあとうっとりする。
地べたにへばり付く僕の手を離れた灰の行方はわからない。もっとずっと遠くへ行けよ、と祈る。まだ熱い灰を掴んだ手のひらには火傷だけが残った。なめてみると苦かった。
僕には放火の才能があった。
悪運にも恵まれていた。
十歳を過ぎた頃から両親は完全に息子に無関心となり、深夜に出歩いても怒られることがなくなった。
そこで僕は数日おいて焼け跡を再訪し、灰の山をひっかき回して戦利品をあさった。
焼け跡には色んな宝物が眠っていた。煤けたテディベアにソフトビニールの人形をはじめとする玩具、拳銃が出てきたこともある。換金できそうなものは殆ど浮浪者にとられていた。
もとは建材の一部だったらしい鉄棒を握り締め、性懲りなく灰を掘り返す。濛々と舞い上がる灰を吸って咳き込めば、真っ黒で細長い物が露出した。
なんだろうと興味を引かれて蹲る。ハーモニカだった。表面の煤を拭って唇にあて、そうっと息を吹き込む。高らかに澄んだ音が響いた。
「まだ生きてる。しぶとい」
もともと箱にでもしまわれていたのだろうか、裾で磨き立てれば銀色の輝きを取り戻す。奇跡的に無事だったハーモニカに感心し、コレクションに加える決定を下す。
とはいえ僕は曲を知らない。教えてくれるあてもない。一人でこっそり練習してみたけど、生来音痴なせいでどうしようもないと早々に諦めた。それはそれでプーパー、気まぐれに一音吹くだけでも楽しくなる。
炎の洗礼をくぐりぬけ生まれ変わったハーモニカには特別な力が宿ったみたいで、唇を付けるたび元気が漲った。
僕は生粋の放火魔だ。物を燃やすのが楽しくて楽しくてたまらない、でかけりゃでかいほどいい。
遠くからでもよく見えるように派手に燃やせ、近くにいたら圧倒されるほど派手に燃やせ。
僕はここにいると真っ赤な炎が暴れ狂って叫び、灰と火の粉が降り積もる。
14になる頃には止まらなくなっていた。僕はすっかり炎の虜で一日中放火の事を考えている。次はどこを燃やそうか、どうやって燃やそうか、ばれないように立ち回るにはどうすべきか……焚き付けはどこで手に入れる?紙屑・燃焼剤・灯油、一番火の回りが早いのはどれだ?今度は何人見に来てくれるかな、何人すごいって言ってくれるかな。
母さんと父さんはラリって寝ている。二人とも全裸で高鼾だ。起こさないように気配をひそめ、ハーモニカをポケットに突っ込む。
今夜は下見だ。放火は我慢する。
この所ペースが上がって警察に怪しまれてる、前にも増して注意深く立ち回らなきゃ逮捕される。
家を出たその足で界隈を探索し、一際闇が濃くよどんだ地区へ赴く。このへんは常夜灯が殆どない、あっても割られている。
下見とわかっていても胸は勝手にドキドキし、吹けもしないハーモニカをめちゃくちゃに吹き鳴らしたくなる。
ポケット越しのハーモニカを叩いて路地を曲がると同時、酒瓶が割れ砕ける音が響き渡った。
「このガキ、なめた口ききやがって!」
「ごめんなさいお父さん!」
紛れもない暴力の気配に身が竦む。僕の視線の先、一軒のあばら家で太い怒声が炸裂する。窓に映る影は酒瓶を振りかぶる男、頭を抱えて突っ伏す子ども。
幼い頃の記憶がフラッシュバックしてあとじさる。心臓の動悸が止まらず苦しい。
過呼吸の発作を起こす寸前、戸口から小さな影が転がり出た。否、正しくは放り出された。鼻血をたらした男の子だ。靴は履いてない、裸足。
僕は。
『おもしれえ灰皿だな、一人前に口をきくのか』
僕は。
男の子は戸口の傍らで膝を抱え込む。僕はただ物陰に隠れ、家から放り出された男の子をじっと見ていた。
あれから僕は同じ場所に通い続けた。
夜こっそり抜け出しあの子の家を見張る。男の子は毎晩の如く閉め出されていた。足には霜焼けができて痛そうだ。年の頃は4・5歳、まだほんの子どもだ。可哀想だった。
放火魔にも良心はある。僕は男の子に同情した。彼は僕で、僕は彼で、両方ともいらない子だ。
窓に映る影は悲惨な家庭環境を物語っていた。酒瓶を振り上げる父親、セックスに溺れる両親、頭を抱え丸まる子ども。怒声と泣き声と喘ぎ声のごった煮。
もうやめようと念じるのに足は自然と男の子の家へ向かい、内側にあてた新聞で隙間風を防ぐ窓を見詰め続ける。
その日はとても冷え込んでいた。僕は凍えた手に息を吹きかけ、男の子の家を見張っている。数分後、痴話喧嘩が始まった。激しく口論する両親の間で泣いている男の子。
馬鹿だな、泣いたって酷くされるだけなのに。
予感が的中した。父親が息子を屋外に蹴り出す。勢いが付いて回る男の子。地面で頭を打ったのか、おでこを押さえて突っ伏している。
「大丈夫?」
なんで声をかけてしまったのか。男の子が驚いて顔を上げる。初めてちゃんと目が合った。
「おにいちゃんだれ?泥棒?」
「ち、違うよ」
火事場で泥棒はしてない。焼け跡じゃしたけど。男の子は警戒した顔付きでこっちを見る。
「寒くない?」
ポケットからマッチ箱を取り出す。マッチを擦る。魔法みたいに炎がともり、男の子の心を溶かす。好奇心に負けておっかなびっくり寄ってきた男の子にそうっとマッチを渡す。
「ちゃんと持って、あぶないから。先っぽさわると火傷しちゃうよ」
普段のどもり癖が嘘みたいになめらかに紡げた。相手が小さい子だとリラックスして話せる。男の子がすごいすごいとはしゃぐので調子に乗り、続けざまに三本マッチを擦って火をともす。
「お兄ちゃんはマッチ売りなの?だからマッチをいっぱい持ってる?」
「うん。全部売って帰らないとおしおきされるんだ」
口からでまかせだ。本当の事は話せない。僕はおだてられるがままマッチを擦り、ともし、燃え尽きるのを見守った。男の子の瞳は炎の照り返しで赤々と輝いている。
キレイだった。
「寒くて凍えそうな時は内緒でマッチを擦るんだ。やってごらん」
「いいの?」
力強く頷き返す。男の子がおそるおそる箱を開けてマッチを摘まみ、箱の側面で擦る。
持ち方がてんでなっちゃない、もっと指に力をこめなきゃ……
「もっとしっかり持って。きちんと押さえるんだ。先端に力を入れて一気に」
至近距離で何回も手本を見せる。遂には男の子の手をとってやってみる。試行錯誤が実り、通算十本目で成功に至る。
「やった」
得意げに微笑む男の子。手の中で燃えるマッチ。地面には先端が煤け、あるいは軸がへし折れたマッチが累々と散らばっている。彼の努力の結晶ともいえるマッチを見下ろし、中身が残り少ない箱を託す。
「あげる」
次に閉め出された時は自分であったまれるように。僕があげたマッチが助けになるように。
男の子はとろけるように笑い、両手の窪みにはまったマッチ箱を覗き込む。
「ありがとうお兄ちゃん」
初めて人にお礼を言われた気がする。正直嬉しかった。こんな僕でも誰かの役に立てた現実が、昔の僕みたいな子を助けられた事実が救いになった。
「忘れないで。誰もあっためてくれないなら、自分で火を点けるしかないんだよ」
僕はずっとそうしてきた。周囲に期待するだけ無駄と諦め、悟り、俯いて生きてきた。この子にはそうなってほしくない。
だから僕は暗闇で早く温まるコツを教えてあげた。焚き付けに何を使えば長持ちするか、マッチの軸木の正しい持ち方はどんなのか、僕が知る限りの知識を授けて男の子を送り返した。
結論から述べると、僕は生粋の放火魔だった。
あの子はそうじゃなかった。
とりわけ冷え込みが厳しい冬の夜だった。
床で寝ている最中、焦げ臭い匂いが鼻を突いた。
瞼を擦って目を開ける。匂いの出所は窓の破れ目で、夜風に乗じて細い煙が入ってきた。
次の瞬間、身体が勝手に動いた。スニーカーを突っかけ外に飛び出し、常夜灯の割れた路地をひた走る。遠くで炎が上がっていた。男の子の家の方角だ。
どうか神様、それだけはやめてくださいと狂おしく祈る。ポケットの中のハーモニカが跳ねて腰を叩く。漸く見えてきた男の子の家は火に包まれ、今まさに焼け落ちようとしていた。
僕のせいだ。僕が殺した。今さら?今までも殺してきたじゃないか。
頭の中が真っ赤に焼け付いて何も考えられない。火の粉を遠巻きにざわめく野次馬が好き勝手をぬかす。
「ガキの火遊びが原因だろ?」
「可哀想に、まだ小せェのに」
「一家全滅とかやりきれねェぜ」
轟々と炎が唸る、目の前が真っ赤に染まる、家がガラガラと音をたて崩れ落ちていく。
「でもまあ、これでよかったのかもな」
「親が寝てる間に火遊びするガキなんてどうせろくな大人にならねえよ、将来は放火魔ルートだ」
「他人を焼き殺す前にテメェの親と死ねて幸運かもな、神様のお慈悲ってヤツだ」
何も知らない大人たちが好き勝手をほざく、パチパチと火の粉が爆ぜて灰が吹きすさぶ。名前も知らない聞いてないあの子が
「……のせいじゃない」
否定する。立ち上がる。よろめく。また転ぶ。転倒の拍子に滑り出たハーモニカが炎に映えて真っ赤に輝く。
「……がやったんじゃない」
地べたに突っ伏して呻く。肘と膝で這って進み、炎上する家に虚しく手を伸ばす。
熱い。熱い。みんな燃える。
絶叫が咽喉を食い破り、咄嗟に引っ掴んだハーモニカで神様のお慈悲だとかぬかしたアホを殴り付ける。
「ンだよてめえっ、いきなり何すんだ!?」
止まらない。止められない。
意味不明な奇声を発して野次馬に踊りかかる、手あたり次第にハーモニカで殴り付け暴れまくる、キレた大人にぶちのめされて脳が揺れる、舌を噛んだ拍子に鉄錆の味が広がる。
「目ん玉かっぽじってよく見ろ、全部僕がやったんだ!」
ああ、どもらないで言えた。ムクツケキ男に胸ぐら掴まれたまま、ささやかな勝利の愉悦に酔い痴れる。
「小便くさいハナタレに親ごと家が燃やせるかよ、こんだけ野次馬集められるかよ!僕が!燃やしたんだ!ここだけじゃない、他の家も全部僕がやったんだ!」
両手を広げて哄笑を上げ、軽快に回りながら宣言する。哀しいのか楽しいのかよくわからない、瞼の裏に浮かんだ男の子の笑顔が立ち消えて燃える家に置き換わる。
「すごいでしょ、褒めてよ!」
「イカレてんのかコイツ、気持ち悪ィ……」
野次馬が生理的嫌悪に顔を歪めて引いていく。渦を巻いて押し寄せる忌避の感情。僕は泣き笑いしめちゃくちゃにハーモニカを吹き鳴らす、目の前で燃えてるあの子に聞かせてあげる。
僕が余計な事を教えたから。親切にしたから。
あの子は生粋の放火魔じゃない、ただの小さい子どもだった。本当なら守ってもらえるはずの大人に傷付けられてボロボロにされた、ただの小さい子どもだった。
「燃えろよ!もっと!全部全部燃やしちまえよ畜生、そんなちっぽけな炎じゃ足りないよ、焚き付けが足りないならくれてやるよ!」
全力で腕を振り抜き、返り血に汚れたハーモニカを炎に投げ込む。まだ足りない。もっと欲しい。シャツを脱いで投げ入れる、ズボンを脱いで叩き込む、下着に手をかけると同時に押し倒された。警察だ。ガチャリと手錠が噛まされる。
「連続放火魔を逮捕したぞ!」
「まさか未成年だとは……」
「自白を聞いた野次馬ごと連行しろ、詳しい話はあっちで聞く」
殺気立った囁きをとどまる所を知らない炎の唸りがかき消し、大量の灰が降り積もる。
そして僕は逮捕された。
冤罪は一件。
両親は最後まで面会に来なかった。
今……少年刑務所の狭い房に立ち尽くし、あの子の事を思い出す。顔は上手く思い出せない。僕の記憶はケロイドだらけだ。
裂けた尻から滴る血が内腿を伝っていく。今さっき輪姦された名残り。
ちびでやせっぽち、おまけにどもりの僕はここに来るなりいじめの標的となった。やりたくない仕事もやらされた。降り積もる罪悪感に比例して嵩む幻の灰。毎日が生き地獄。
怖いのも痛いのも寒いのも苦しいのも、ここじゃ当たり前の日常だ。
こんな僕を気にかけてくれる人もいた。優しい人だった。
でも、だけど、限界だ。
灰色の壁に四面を塞がれた房の中心、梁にタオルを結んで輪を作り、静かに首を入れる。
死ぬ前に放火魔が考えることは決まってる。
「……ここ、燃やしたかったなあ」
きっとキレイだったろうに、残念だ。
殺風景な壁も安っぽいパイプベッドもノミとダニが沸いた毛布も炎に包まれて灰になり、その灰がゆっくり静かに降り積もって体中の穴を塞ぐ光景を想像する。
頭のてっぺんから爪先まで僕を埋める灰は火事の犠牲者でできていて、僕がなくしたハーモニカも高温で溶けず灰に帰って、あの男の子も帰ってくる。
僕が死ねばきっとそうなる。
必ず。
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