七つ尾のふたり

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七つ尾のふたり

 連日の秋霖(しゅうりん)に追い立てられて、九ノ幡山(くのばたやま)の残暑はあっさりと鳴りを潜めた。五日振りの秋晴れの下、九尾狐(きゅうびぎつね)のムネは、金木犀(きんもくせい)の香りが混じる清涼な風に金色の毛を(なび)かせて、川岸の砂利道を歩いていた。  ふと足を止める。風の中に僅かに同族の匂いが混じっている。特段珍しいことではない。九ノ幡山を縄張りとする九尾狐のほとんどは七つの掟を遵守し、仲間同士の結束も固い。しかしムネの棲む下流周辺では、掟を破り断尾(だんび)を受けた破落戸(ごろつき)(ども)が弱きを喰い物にしようと物陰で目を光らせている。用心に越したことはない。  身を低くして足音を忍ばせる。奇襲に備えて茂みや木の上に目を走らせる。幼くして親に捨てられたムネは己の守り方を心得ていた。  ややあって辿り着いた匂いの元では、一匹の九尾狐が川面に口を寄せて水を飲んでいた。ムネがするように鼻口を突っ込んでがぶがぶと短時間で済ませるようではなく、舌先でひと(すく)いずつ悠長にぴしょりぴしょりとやっている。その背にいつ爪牙が迫るとも知れないのに。どうやら世間知らずが紛れ込んだようだと、ムネは見当を付けた。  余所者(よそもの)らしさを殊更に印象付けたのは、新雪のような純白の毛色だった。大抵の九尾狐は、ムネのように輝く黄金色か、深い山吹色をしている。ムネは白毛を目にするのは初めてだった。普段であれば干渉なく警戒しつつ立ち去っていたが、このときばかりは好奇心が勝った。 「おい」  ムネは白毛の背中に呼びかける。虚を衝かれた白毛は鞭で打たれたように飛び上がり、怯えた目をムネに向けた。声も上げられない様子だ。 「ここいらじゃあ見ない顔だな」  白毛は一歩後ずさった。 「怖がりなさンな。取って食おうってンじゃあねえンだ」  ムネは横で水を飲んでみせた。無防備な姿をさらすのは害意を持たない証。対話を望むなら牙を収めて背を見せよ。九尾狐の暗黙の了解だった。  ムネはまず自ら名乗った。 「で、お前の名前は」 「言わなきゃいけないかな」 「別にいいだろう、減るもンじゃなしに」  横柄な物言いに少し躊躇いを見せながらも、白毛は小さな声で「タマ」と名乗った。  ムネよりもいくらか小ぶりで肉付きの薄いほっそりした体躯、しなやかに揺れる艷やかな尻尾は、遠目では雌か仔狐にも見えたが、ムネと同じ年頃の雄だった。顔付きは、いかにも甘やかされて育ったような(いとけな)さを残している。  ムネは、タマの尾を数えた。 「(なな)()か。お前みたいなお坊っちゃんが二本も失くすなんて、どういう訳だ」 「話したくない」 「いいじゃねえか、同じ穴の(むじな)だろ」  ムネは自身の、七本の尾を振って見せた。 「一緒にしないでよ。それに僕は狢じゃない、九尾狐としての矜恃(きょうじ)があるんだ」 「九尾狐の矜恃ね。笑わせてくれる。もう七つ尾のくせに」 「好きでなったわけじゃない。もう行くよ」  タマは身を(ひるがえ)し、不愉快そうに駆け出した。ムネがその背に「近いうちにまた会おうぜ」と声を飛ばしても返事は無かった。  翌日、日が高い時分に、ムネの姿はタマの巣穴の前にあった。 「呆れた。まさか昨日のうちに()けていたの」 「呆れたのはこっちだ。まさか尾けられても気付かないなんてな。そんなンじゃあ、ここいらで生きていけないぜ」  ムネは臆面もなく言ってのける。タマは心底迷惑そうに溜息を吐いた。 「何しに来たの」 「お前が七つ尾になった訳をまだ聞いてねえ」 「話したくないって言ったじゃないか」 「付き合えよ。七つ尾同士、胸襟を開こうじゃねえか。まあいい、俺から話そう。お前が話すかどうかは後で決めればいい」  ムネは如何にして二本の断尾を受けるに至ったかを赤裸々に語り始めた。  他狐(ひと)が冬に備えて集めた木の実をくすね、ときには力にものをいわせてふんだくる。「あっちにもっと良い寝床があるぞ」と唆して引き払われた巣穴を横取りする。美狐(びじん)を見付ければ、(つがい)がいようがいなかろうが、雌が泣こうが喚こうが構わず覆いかぶさる。 「そんなわけで喧嘩沙汰もしょっちゅうだ」  引きもきらず蛮行の数々を誇らしげに語る一方で、タマは眉間に皺を寄せ、ムネに向ける眼差しは軽蔑の色を深めていた。 「掟を片っ端から破っているじゃないか」  タマの指す掟とは、九尾狐が同胞と親密に共存するために守っている【七つの掟】のことだった。  一つ、同胞(どうほう)から盗む(なか)れ。  二つ、同胞から奪う勿れ。  三つ、同胞を騙す勿れ。  四つ、同胞について偽りを述べる勿れ。  五つ、同胞を殺傷すること勿れ。  六つ、同胞を強姦すること勿れ。  七つ、同胞の雄同士また雌同士で尾を交える勿れ。  ムネの悪行は当然に咎められ、戒めとして山長(やまおさ)から二本の断尾を受けていた。 「やっぱり一緒にされる(いわ)れはないよ。僕は掟を破ったことなんてただの一度もないんだ。君の話じゃあ、聞いただけでも、七つ目の他はみんな犯しているってことじゃないか」 「いいや違うな。俺は強姦なんてしてねえ」  タマは首を傾げた。手当り次第に雌を手篭(てご)めにしたと、ムネは確かに言ったはずだった。 「俺は未だに納得してないのさ。雌ってのは最初のうちはみんな嫌だ嫌だと泣くもンでな。でも終いにゃあ、恍惚(うっと)りした顔で『良かった』なんて言うンだよ。終わり良ければ全て良しってな。だから強姦ってわけじゃねえ」  にやりと下卑た笑みを浮かべている。 「尾籠(びろう)な話がしたいなら他所(よそ)でしてきなよ」  タマが恥じらったように目を逸らすのをムネは見逃さず「なンだお前、本当にだったのか」と茶化した。 「それで、」  と、ムネは仕切り直すように一呼吸置く。 「お前の七つ尾はどういう訳なンだ。あと一歩で六つ尾落ちなのは、お前だって知らないわけじゃあねえだろう」  さっきまでのおちゃらけぶりとは打って変わって、問い質すように抑えた声。  ムネは自身の悪事を包み隠さず打ち明けた。一度の過ちも犯さず清廉潔白の証明として欠けのない九つの尻尾を持つ九尾達にも、九尾狐とは名ばかりになった七つ尾達にも、それぞれの縄張りがあり社会がある。七つ尾ともなれば生半可な無法者ではない。(だんま)りを決め込むタマを手放しで迎え入れるわけにはいかないと、ムネは言い含めているのだった。  それはタマも重々承知のはずだった。向こう三軒両隣が(のり)()えるのもお構いなしの七つ尾であろうと、九ノ幡山で生きていく限り(かかずら)うのを避けてはとおれない。  真正面から()めつけ、有無を言わせない様子のムネに気圧されて、タマはようやく観念したようだった。暫く考え込むように俯いてから、僅かに震える声を漏らした。 「人間にやられたのさ」  怪訝さを示すようにムネの眉がぴくりと動く。  九尾連中は上流周辺に棲んでいる。山深く、食糧にも事欠かず、人間と出くわすことも滅多にない。掟を守り同胞と衝突しなければ、九ノ幡山のどこよりも安全なのだ。  と、なれば。 「人里に降りたのか」 「よく分かったね。でも、向かったのは僕の父だよ。見識を広めたいとかなんとか言って、足繁く通っていた。ときには人間の食べ物を持ち帰ってくることもあった。きっと尾けられていたのに気付かなかったんだ。僕が間抜けにも君を巣穴まで案内してしまったのは、父の血の所為(せい)かもね。父と同胞が何匹か捕まって、僕は尻尾を持っていかれた」  狐の毛皮や尻尾は、人間達の間で高く売れるらしい。生け捕りにすれば綺麗な剥製にもなる。人里を彷徨(うろつ)く一匹を捕らえるよりも、後を尾けて一網打尽にするのが賢いやり方だ。 「他に家族はいないのか」 「きょうだいはいないし、母は僕が幼い頃に病で亡くなったよ。この白毛は母譲りなんだ」  人間に襲われ、唯一の家族と、九尾狐の尊厳ともいうべき尻尾を奪われた。掟を破ったのではないとしても、とりわけ気位が高い九尾達の間なら、九つの尻尾を揃えていなければ白い目で見られるだろう。完全に揃った尻尾こそが彼らの誇りなのだ。  そもそも九ノ幡山に人間を引き込んだのはタマの父だった。好奇心が強いのは狐の(さが)とはいえ、同胞を脅威にさらしたのは紛うことなき事実だ。尻尾を失っていようがいまいが、ひとり息子のタマは針の(むしろ)だったに違いない。山を下るしか道は残されていなかっただろう。たったひとりで。  なるほど、とムネは頷いた。 「気の毒だな。だが、七つ尾連中ってのは容赦がねえ。ここで生き残るには身の守り方を知らなきゃならないンだぜ。あんなお上品に水を飲んでるようじゃあ、あっという間に餌食にされちまう」 「分かってはいるけれど、僕は見てのとおり世間知らずなんだ。狩りもそれほど巧くやれない。なんとか木の実で食いつないではいるけれど」  ムネの目がぎらりと光った。 「なら、俺と同盟関係を結ぶってのはどうだ」 「どういうこと」 「これからは真っ当に生きようと思ってな。()()()ちはこの山から追い出されちまう。そんなのはさすがに御免なンだ。お前は、俺が悪さをしないように見張ってくれりゃあいい。代わりに、お前には七つ尾としての生きる術を教えてやる」  タマは、暫し思い巡らすように小さく何度か頷いて、「悪くないね」と言った。 「それじゃあ早速、兎を、いや、虫でも捕りに行こうじゃねえか」  ムネの足取りは軽かった。思惑どおりタマを手中に収めて上機嫌だった。  同盟関係とは名ばかりの、誰が見てもタマに分がある取り決めだった。ムネが掟を破らないように見張るなど、仕事になりえない。タマが力づくでムネを止められるわけもなく、勿論、ムネも素直に応じるわけがない。  タマもそれを分かって承知したに違いない。七つ尾の馬鹿を護衛に付けられて、内心ほっとしてさえいるのではないか。いざとなったら、あるいは用済みになったら、逃げ出してしまえばいいと。使えるものは何でも使う。悪くない考えだ。それが七つ尾として利口な生き方だと、ムネは思う。  だが、ムネとしても、おいそれと掌で踊らされるつもりはない。タマにはほどほどに、文字どおり餌を与えて手元に置く。有事のとき、矢面に立たせる駒として。肝心なのは命を落とさないこと、生き長らえることなのだ。  無論、折角手に入れた駒を見す見す逃すわけがない。掟破りを山長に告げ口されても面倒だ。万一の際には、裏切り者の首筋に凶牙を突き立て、口を封じればいい。ムネには、こうした駆け引きにおいて絶対の自信があった。  この同盟は、互いにとっての御為(おため)ごかしだ。  タマの狩りは、目も当てられないほどひどかった。虫一匹、まともに捕まえられない。飛びかかりはするものの、両手の隙間からするりと虫が這い出てくる。そんなのを何度も繰り返している。巧くないどころの話ではない。まるで初めて狩りに繰り出した仔狐のようだった。 「おい、虫とお遊戯しに来たンじゃないンだぜ」 「真面目にやってるさ」  タマは膨れて、また闇雲に飛びかかり、ぴょいと鈴虫が跳ねていく。 「いいか、こうやるんだ」  痺れを切らしたムネは、茂みを尻尾で一打ちする。バッタが跳ね上がる。すかさず食らいつく。上下の切歯に挟まれてもがく獲物をタマに見せつけた。  タマが感嘆の声を漏らすと同時に、バッタは為す術も無く咀嚼された。  タマの細っこい体は生まれつきであろうが、肉付きの薄さはどうやらそれだけではないように思われた。手元に留め置くためには、暫く世話をしてやらねばならないようだった。思ったよりも面倒な奴を抱えたなと、ムネは些か後悔した。 「今日の食いもンは俺がなんとかしてやる。しっかり見ておけよ」  ムネは易易(やすやす)と獲物を仕留めていく。木のうろに顔を突っ込んで野ネズミを咥え、細い穴をほじくり返して蛇の頭に牙を立てる。川沿いの蛙は逃げる間もなく、おやつ代わりに口に運ばれた。  獲物の居場所を知り尽くしたように次々と探し当てるムネを見て、タマは驚きとともに目を輝かせた。  運悪くムネの目の前を横切り、瞬時に首元をがぶりといかれた兎を、タマは一口ひとくち噛み締めるように味わっていた。  日も傾きかけ、九ノ幡山に夕暮れが訪れようとしていた。秋茜(あきあかね)が飛び交い、金木犀の甘い香りを乗せて金風が爽爽(さわさわ)と流れていく。 「さっさと食えよ。通りすがりに横取りされちまうぜ」  言うが早いか、ムネは顔を上げて耳を立て、周囲に目を走らせた。 「近いぞ」  タマも緊張に身を強張らせて、食い止しの肉片が口端から落ちた。 「風下にいれば気付かれないとでも思ったか。その匂いはマツだな」  ムネが声を張ると、二間ほど離れた鬱蒼とした藪から一匹の狐が飛び出してきた。物陰に溶け込むのに適した薄墨色の毛色を持つ九尾狐だ。張り付いた木の葉を払おうと振っている尻尾は七つ。 「流石はムネさんだ。その耳と鼻、ちっとも鈍っちゃいない」 「片や、お前ときたらお粗末なこった。忍び足のマツの名が泣いてるぜ」  そそくさとムネの背中に隠れていたタマを他所に、ムネとマツは互いに大きく口を開けて見せ合っている。七つ尾同士のよく交わされる挨拶だったが、ふたりの研ぎ澄まされた犬歯が露わになり、タマを震え上がらせた。 「そっちの白毛は、ムネさんの新しい舎弟ですかい」 「聞こえが悪いな。ついさっき同盟関係を結んだところだ。お前を舎弟にした覚えもねえし、もとより同胞の間に上も下もありゃあしねえだろう」 「いやいや、上になるか下になるかは肝要でしょう。その白毛はどっちなんです」 「下らねえこと訊くンじゃねえよ」 「これは失敬。いやあ、それにしても随分と愛くるしい顔した雄ですなあ。おまけに艶っぽい体をしてる」  マツは前のめりになって、タマの耳から尻尾の毛先まで何度も舐め回すように熟視した。 「こいつは根の悪い奴じゃあねえが、どっちもいける口なンだ。用心しろよ」とムネが耳打ちする。タマは、言意を図りかねたように曖昧に頷いた。 「それで、同盟関係ってのは何です」 「この世間知らずに七つ尾の生き方を教えてやる代わりに、俺が掟を破らねえよう、お目付け役をさせてるンだ」  マツの顔が険しく歪んだ。 「掟を破らないように、ですかい。さんざっぱら不埒(ふらち)を働いてきたってのに、急にどうしちまったんです」  気を悪くしたのを隠そうともしない声色だった。 「まあ聞けよ。お前も六つ尾落ち一歩手前じゃあねえか。ここいらで足を洗って……」 「聞きたかあないですね、そんな腑抜(ふぬ)けになっちまって」 「なんだと」  (たちま)剣呑(けんのん)な空気が漂う。  ムネとマツは息を合わせたようにすっと立ち上がり、鋭い目付きで睨み合う。両耳は後ろ向きに折れ、先の挨拶とは比べ物にならない獰猛さで大口を開き、犀利(さいり)な牙が剥き出しになる。互いに組み付く機会を窺っている。  ムネの後ろ脚が地を蹴るやいなや、 「殺傷すること勿れ!」  タマの割れるような大声が響き渡った。  はっとして、ムネは牙を収めた。マツも不意打ちを食らう形になり、さっと飛び退いた。火蓋が切られる(すんで)のところで両者が引き下がり、タマは胸を撫で下ろした。 「ありがとうな」  ムネは自身の口から出た言葉に驚いた。他狐に礼を述べる律儀さなど、()うの昔に置いてきたと思っていた。タマも同じだったようで、思い掛けない台詞に目をぱちくりさせてから、顔を綻ばせて頷いた。 「当然じゃないか。僕はムネと同盟を結んだんだ。自分の仕事はしっかりやるさ」  ふたりの束の間のやり取りを目の当たりにしたマツは、不成立の喧嘩だったにも関わらず、屈辱を噛みしめるように牙をかちかち言わせた。 「仲が良くて結構ですな。じゃあお好きに、どうぞ宜しくやってくださいよ」  捨て台詞を残して、マツは藪の中へ消えた。 「いつも陽気な奴で、あんな風にへそを曲げるのは珍しいンだ。偶偶(たまたま)、虫の居所が悪かったンだろうよ。気にすンな」  ムネが庇うように弁解するのも無理からぬことだった。悪友とはいえ、ムネを慕う数少ない同胞だった。マツの気に障る原因に心当たりが無い。  心()かりは拭えなかったが、既に日は落ちていて、辺りは宵闇に包まれている。ふたりは家路に着いた。  九ノ幡山の秋はますます深まり、燃え立つ紅葉に彩られた。高い空を鰯雲が流れ、竜胆(りんどう)の鮮やかな紫が点々と足元に映える。蟋蟀(こおろぎ)の奏楽も賑やかさを増していた。  ムネの指南の下、タマは狩りの訓練を続けていた。曲がりなりにも狩りと呼べる程の上達を見せていた。虫も蛙も逃すことはなくなった。以前は怖がって近付くのも嫌がっていた蛇にも触れるようになった。  この日、初めて小鳥を捕らえる快挙を成し遂げたタマは、ほくほく顔だった。 「僕にも鳥を捕まえられる日が来るなんて、夢にも思わなかったよ。嬉しいねえ。これもムネが仕込んでくれたお陰だよ」  タマは無邪気な笑みを湛えてムネを見上げる。 「ありがとう」  妙な感覚に襲われた。形容し難い内懐の揺らめき。初めての感触だった。不確かな感情に戸惑いながら回顧していたのは、嘗て図らずもタマに礼を言った日のことだった。あの時、タマは確かに約束を果たしたのだった。  ムネとマツを放っておいて、ふたりが傷付け合ったとしても、山長に知れたところで、喧嘩両成敗でお咎め無しになっただろう。そこまで頭が回らなかったとしても、厄介事から一目散に逃げ出すことも、弱気を理由に身動き出来なかった振りをすることも出来たはずだ。タマもまた、そういう保身に長けた七つ尾なのだと決め込んでいた。  果たして、タマはそれほど狡知(こうち)な七つ尾であろうか。毎日付き添って傍で見ている限り、(むし)ろ実直を通り越して愚直に過ぎる程ですらある。出会って早一月。ムネのタマを見る目は変わりつつあった。 「ムネ、どうかしたの」  考えに(ふけ)っていたムネは、タマの声で我に返った。鼻先が触れるすれすれの距離、仔狐のような、くりっとした双眸(そうぼう)がムネの顔を覗き込んでいた。 「いや、なんでもない。そろそろ帰るか」  帰りしな、ムネは尻尾を一つ持ち上げてタマの頭に載せた。 「今日はよくやったな」  体を走るむずつきと、のぼせたような心地。どうにも決まりが悪くて、気分を鎮めるようにタマの頭を荒っぽく撫でた。  夜の散歩がしたい、とタマが言い出したので、ムネは付き合うことにした。連れ立って川沿いを歩く。そこはちょうど、タマと出会った辺りだった。  鈴のような虫の声。細流(せせらぎ)の微かな音。川面は穏やかに(とろ)み、大きな満月が落ちて揺蕩(たゆた)っている。時折、肌寒い秋風がとおり抜け、川辺りの芒波(すすきなみ)(うね)った。  タマは俯きがちに歩いていた。かと思えば、物言いたげにムネの顔色を窺い、また下を向く。それが何度か繰り返されて、いよいよ待ち草臥(くたび)れたムネが沈黙を破った。 「言いたいことがあるンなら、はっきり言ったらどうだ。散歩なんてのは口実で、話がしたかったンじゃねえのか」 「それはそうなんだけど」  タマは叱られる子供のように首を(すく)めた。 「そんなに縮こまるなよ。怒りゃあしないさ、言ってみろって。俺との間に隠し事は無しだぜ。同盟ってのは信用が肝なンだ」  ようやく決心が付いたように、タマは足を止めた。ムネもそれに合わせて立ち止まる。一陣の風が駆け抜け、ふたりの七つ尾を揺らした。芒達の(ざわ)めきが止むのを待ち、タマは口を開いた。 「僕は、君を騙している」  ムネは動じなかった。無言で先を促す。 「僕の二本の尻尾、人間の仕業だと言ったけれど、それは嘘なんだ。母が亡くなってから、父は雄手(おとこで)ひとつで育ててくれたんだけれど、僕が表へ出るのを極端に嫌がったんだ。箱入り娘宜しく、行き過ぎた愛寵(あいちょう)なのだと思っていたよ」  それでムネは合点がいった。タマは本当に狩りが初めてだったのだ。普通の狐ならば、親から狩りを教わるものだ。 「いつからか、父は『お前はまさに、あいつの生き写しだ』と言うようになってね。ときに母の名前で僕を呼んでみたり、夜休んでいると添い寝してきたりするようになった。妙だとは思っていたけれど嫌とは言えなかった。鰥夫(やおも)になった父だって、辛くなる日があるのだろうと思ってね」  ムネには両親の記憶がほとんどない。それでも、父と子の間でそんな遠慮の仕方は筋違いだと思った。とはいえ、今のタマに見解の相違をぶつけたところで、どうしようもない。  ここまで聞けば、父との間に何があったのかは粗方読めたが、気が済むまで吐露させてやろうとムネは黙って傾聴することにした。 「夜更けに寝込みを襲われた。覆い被さられて、首筋を噛まれて、身動きが取れなかった。されるがままだった。父は、母の名前を息荒く呼び続けていたよ。あとは何をされたか言わなくても分かるよね。隙をついて逃げ出したけれど尻尾に噛み付かれてね」  ムネも断尾を受けた際に知ったことだが、九尾狐の尾椎(びつい)は、他の尾を持つ動物のそれと比べて柔らかく、尻尾周りの痛覚も鈍い。ムネのような特異な境遇を経た例を除いて、大抵の九尾狐であれば、尻尾の喪失よりも尊厳の毀損が骨身にこたえるのだ。 「二本目はどうした」 「父から逃げて山を下って、それほど日が経たないうちだったね。新月の晩だった。見知らぬ雄に、父にされたのと同じことを。その日は具合が悪くて寝込んでいて、抵抗する気も起きなかったんだ。鼻が利かなくて相手の匂いも分からない。尻尾は帰り際にぶつりと持っていかれたよ。記念にでもしようというのかな」  タマは(おど)けたように言うが、ムネの表情は硬かった。 「もっと早く言ってくれりゃあよかったじゃねえか」 「言えるわけないよ、こんな不名誉なこと。雄のくせに、自分の身一つ守れやしなかったんだ。それに、七つ目の掟を破ったことにもなる」  どういうわけで掟を破ったことになるのか、()ぐには判然としなかった。  七つ、同胞の雄同士また雌同士で尾を交える勿れ  まさか、とムネは思う。 「無理やりされたってのに、雄と尾を交えたのに違いはないって言うのか」 「違うの、僕はそう思っていたよ」  違う、とは言い切れなかった。タマの解釈が間違いだと言える根拠は持ち合わせていなかった。それどころか、掟の文言をそんな頓智(とんち)みたいに考えたことなど無かったのだ。  極端に解すれば、雄同士であれ雌同士であれ対等に力で張り合えるのだから、襲われたなら返り討ちにすればいい、自分の身も守れない者など九尾狐の風上にも置けない、といったところだろうか。  ムネは苦笑を漏らす。馬鹿馬鹿しい。一息で唱えられる文句を()ねくり回したって何にもなりはしない。結局は山長の匙加減一つだ。 「君を騙して同盟を結んだし、二度も雄と尾を交えてしまった。掟を二つも破っておきながら黙っていたことを謝りたい」  タマの消え入りそうな声に、ムネは身を切られるような思いがした。項垂(うなだ)れるタマの額に、自分の額をぴたりと重ねた。 「嘘を付くこと全部が他狐を騙すってことじゃあない。隠し事の一つや二つあったって構いやしない。でも、俺には何も隠し立てしなくていい」 「ムネだから話せたんだよ。許してくれるの」 「嫌なことを思い出させちまったな。一晩だけ隣で寝てやる。お前に狼藉(ろうぜき)を働こうとする野郎が来たら、尻尾を食い千切ってやるンだ」 「やめてよ、僕の仕事が増えるじゃないか」  月明かりに照らされた夜更けの道に、横並びで歩くふたりの影が長く伸びた。  いつものように狩りに付き合ったムネは、タマと分かれてひとりで家路に着いた。通り道の先、見慣れた九尾狐が待ち受けるようにして立ち塞がっていた。 「おいおい、ついに隠れ身も忍び足も捨てちまったのか」 「お久しぶりですね、ムネさん」  前の(いさか)いについて、互いに触れようとはしない。小さな衝突をいちいち根に持つのは七つ尾のやり方に反すると、ふたりは心得ていた。 「ねえムネさん、またふたりでやんちゃしましょうよ。俺はムネさんと好き勝手するのが痛快でたまらないんですよ」  ムネは呆れたようにマツを諭す。 「もう掟破りはしねえ。真っ当に生きていこうって決めたンだ。実を言うとな、この前は舌先三寸みたいなもンだった。でも今は違う。お前だって次の断尾でどうなるか、分かってるンだろう」 「大丈夫ですって。上手くやれば、あんな老いぼれ一人言いくるめて無罪放免ですって」  山長を指してのことである。全く引く気のないマツに、ムネは決然とした態度を強めた。 「決めたことだ。他を当たってくれ」 「なんでえ、つまらねえ雄になっちまって。臆病風に吹かれたんですかい」 「言ってろ。俺は忠告したからな」  挑発にも乗らないムネに業を煮やして、マツは忌々しそうに零す。 「やっぱり、あの白毛ですかい。あんなどこの馬の骨だか知れない奴の相手なんかやめてくださいよ。まだ浅い仲でしょう、さっさと手を切りましょうや」  ムネが唐突に吹き出した。 「何が可笑(おか)しいんです」 「いやあ、あいつなら『僕は馬じゃない、九尾狐としての矜恃がある』とか言い出しそうでな」  愉快そうに笑うムネに反比例して、マツの顔付きは、くしゃりと歪んだ。 「もうすっかり白毛の(とりこ)じゃあないですか。俺とムネさんの仲はどうなっちまったんですか」  独りごちるように言い残して、マツは走り去って行った。  その日の晩。  巣穴で眠っていたタマは、突如、尻尾に走った痛みで飛び起きた。 「え、何」 「声を上げるな」  侵入者が尻尾の一つを踏んづけて爪を立てていた。決して逃がすまいとする強い意志が込められているようだった。 「おい白毛、ムネさんに何を吹き込みやがった」 「何のことか分からないよ」 「分からないってこたあないだろうよ。お前の所為でムネさんは腑抜けちまったんだ。ムネさんを(たぶら)かして利を(かす)め取ろうって魂胆なんだろ。何が同盟だ、糞食らえ。この泥棒狐め」  ようやくタマは、用心しろと言われていたマツに襲撃されているのだと理解した。 「こちとら、むしゃくしゃが収まりそうにないんだ。気慰みに付き合ってもらうぜ。加減は出来ないから覚悟しろよ」  言うなりマツは、タマの上に伸し掛かった。頬から耳にかけて舌が這い、身震いがして総毛立った。(かつ)ての辛酸と恐怖が蘇って体が強張る。身動(みじろ)ぎ一つ出来なくなったタマは、心の内で泣き叫ぶ他なかった。  為す術無し、とタマが腹をくくったときだった。ふいに重みから解放されたタマは、堪えるように固く閉じていた目を細く開けた。  そこには、巣穴から引き()り出されたであろうマツが仰向けに転がり、月光を浴びた黄金色の尾を燦然(さんぜん)(きら)めかせる、ムネの姿があった。  何やら良からぬことを為出(しで)かしそうだと、別れ際のマツの顔からムネは察していた。マツの巣穴近くに身を潜め、草木も眠る刻限を見計らって這い出し出掛けたマツを見届け、付近を嗅ぎ回った。  タマの話によれば、山を下ってきて程なくして見知らぬ雄に襲われ、尻尾を持ち去られたという。この辺りで雄の尻を付け狙う九尾狐の雄には幾つか心当たりがあったが、そう多いわけでもない。  どうか見込み違いであってくれと願いながら行き着いたのは、高い木の枝に隠すように吊るされた、数本の九尾狐の尻尾だった。マツの匂いがこびり付いた、冴え冴えと白く輝く尾もそこにあった。 「新月の晩、タマをやったのはお前だな」  面前に自身の咎を突き付けられ言い逃れ出来ないと悟ったのか、マツは不貞不貞(ふてぶて)しく、にやりと笑った。 「他狐の蒐集品(しゅうしゅうひん)を持ち出すなんて、趣味が悪いですねえ」 「悪趣味なのはどっちだ。気色悪いことしやがって」 「俺をどうしようってんです、こっちは未遂ですぜ」 「明日、朝一番で山長のところに行け。自慢の蒐集品を持参してな」 「まさか。自ら六つ尾落ちを志願しろってんですかい。今夜のうちに雲隠れしますよ」  ムネは「そうか」と呟いて、マツの尻尾を押さえつけた。尖爪が食い込み、血が滲む。威嚇するように限界まで開けた口から覗く牙は、瞋恚(しんい)に燃えていた。 「ムネ、だめだ。掟破りじゃないか」 「いいや、こいつはけじめってやつだ。俺の矜持で、俺のやり方なンだよ」  ムネは尾の根本に喰らい付いた。尾椎を噛み砕き、力任せに引き千切る。マツは短く呻き声を上げた。刹那の出来事だった。  引き離された尻尾を持ち主に放り投げて、ムネは言い放つ。 「何処へでも行け」 「(たま)まで取られるかと思いましたよ。お目溢(めこぼ)しに感謝して失せるとしましょう。一つ訊きたいんですが、どうしてこんなにも先回りができたんですかい。俺はあのとき、何も言っちゃあいなかったのに」  ムネは物悲しげに微笑んだ。 「お前とは長い付き合いなンだ、顔を見りゃあ分かるに決まってンだろう」  六つ尾になった薄墨色の九尾狐は、尻尾を残して、跳ねるように駆けて闇夜に紛れた。去り際のマツは心做(こころな)しか嬉しそうに見えた。 「日が昇ったら山長のところに行く。この山を出て他所へ移る。今まで世話になったな。いや、世話したのは俺の方か」 「何を言っているの」 「お前も立派になったじゃねえか。食いもンにも困らねえだろう」 「僕も行くよ」 「馬鹿言え、六つ尾落ちでもねえのに付いて来るこたあねえだろうよ」 「僕だって掟破りだ。断尾を受ける資格があるよ」  資格、とは。ムネは頭が痛くなった。 「いっそのこと、今直ぐやっても構わないよ。山長がいなくたって、けじめは付けられるんでしょ」  頑固な上に、揚げ足取りみたいな真似もする。何を言っても退かなそうだった。それからいくら応酬を続けても、タマの口八丁には言い負かされるばかりだった。ムネはついに折れた。 「じゃあ、俺のからやってくれ」  月明かりの下、黄金色の尾と、純白の尾が、それぞれの牙で断ち切られる。厳粛な儀式のようでもあった。ふたつ並べた尻尾を前にしてタマは満足げだった。 「じゃあ、行こうか」 「もう発つのか」 「ムネの気が変わらないうちにね」  最も近い山を目指しても、相当の距離がある。長い旅路になりそうだった。道中、数多の苦難があるだろう。日照りの道を行き、土砂降りに見舞われ、人間に追いかけ回されるかもしれない。それでも、逞しくなったタマとふたりなら(しの)げるだろう。生き長らえるだろう。先行きの見えない道程でも、タマと歩むのなら悪くないと、ムネは思った。 「ところで、本当に俺を信用していいのか。お前とふたりっきりじゃあ、変な気を起こして七つ目の掟を破るかもしれないぜ」  ムネは冗談めかして言ったつもりだった。 「九ノ幡山を出たら、掟なんて関係無いんじゃないかな」  タマは、いつかのように恥じらった素振りを見せた。その横顔を見たムネの心臓は、鐘を強く打ったように一つ跳ねた。タマの母はさぞかし美狐であっただろうと、幻想の姿をタマに重ねた。
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