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「……なに、あれ」
雪が降り積もった白い世界に佇むそれは、鹿ではなかった。かといって何かと言われても説明ができない。縦長の影で、なんとなく腕と足があるのがわかる。
これだけなら人間のように見えるが、肝心の顔と体が見えなかった。しかもその影が道路に沿ってずっと並んでいる。何十……いや、それだけでは利かない数だ。
地吹雪が舞う中、影はずっと私たちを見つめていた。「顔が見えない」と言ったが、視線だけは確かに感じていた。その視線が氷のように冷たくて、私は震えが止まらなかった。
謎の物体に恐怖しているのは夫も同じだった。なるべくあの物体と目を合わせず、ひたすらアクセルを踏み続ける。しかし、どんなに速度メーターが上がったとしても、スピードが上がっているような感覚はない。
どこまでも白い世界が続いていく。たとえて言うなら、異空間だ。
謎の物体がゆらゆらと揺れる。中にはこちらに手を振るような仕種をする者もいた。まるで私たちをこちらに招き入れているみたいに。
目をつぶりたい。こいつらの姿なんて見たくない。それなのに、私は視界を奪われたようにずっとその影を見つめていた。
「もうやだ。もうやだ。もうやだ。もうやだ」
縋るようにスマホを握りしめながら、無意識に同じ言葉を繰り返す。その隣では夫の息が浅くなっている。二人とも、各々自分の恐怖と戦っていた。
この震えが、恐怖なのか寒さなのかもわからない。そうしている間に、影がゆっくりとこちらに近づいてくる。ああ、もうだめだ。こいつらに襲われる。
「こっちに……来るなぁぁぁ!!」
影が車窓を覗き込もうとしたまさにその時、夫が声を荒げながらクラクションを鳴らした。
白い異空間にクラクションが鳴り響く。その音に驚いたのか、近づいていた影が退いた。それが好機だった。
「……案内標識だ」
見慣れた白い案内標識に私は思わず呟いた。その標識には青い文字で私の故郷の名前が書かれている。峠を抜けたのだ。
あれだけ一面ホワイトアウトだったはずなのに、案内標識を過ぎた途端雪が止んだ。それと同じくして真っ暗だったはずのカーナビの画面が起動し、何事もなかったかのように音楽が鳴りだした。
恐る恐る道路沿いを見てみると、あの謎の影は消滅していた。雪の中で幻でも見たのだろうか。夫に聞こうと思ったが、訝しい顔でハンドルを握っていたので私は敢えて声をかけなかった。
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