【最終話】同棲生活二週間目 ~夢見た先の~

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【最終話】同棲生活二週間目 ~夢見た先の~

 香奈の居候生活が終わりを告げても、彼女が雅治のマンションを出ていくことはない。  居候生活の頃より増えた家具や調理器具の溢れる世界で、二人の生活は続いていた。  何気ない日常に溢れた幸せを噛みしめ、満たされた心で過ごす日々の暮らしに、今日も笑顔は花のように咲いていた……。  *――*――*――*――* 「美味しい!」  いぶりがっこの入ったポテトサラダを口にした香奈は、嬉しそうに定食の箸を進めていく。  居酒屋で提供されるランチ定食を注文するのは初めてだったが、提供されるメニューが小鉢に盛られて、少しずつ違う料理を堪能できる。  平日のお昼に細やかな贅沢をしている気分を味わいながら、香奈は止まらない箸で料理を食べ進めながら、一息ついたところで幸せの溜息をついた。 「香奈に喜んでもらえてよかった。店長、やったね!」  カウンター越しに居酒屋の店長と笑い合った綾子は、隣の席で美味しそうに食事を続ける香奈の姿に安堵した。  昨日の夕方に届いた、午後の講義の休講連絡。  アルバイトのシフトも入っておらず、夕食を作るまでの時間が大きく空いてしまう香奈の元に届いたのは、親友である綾子からランチのお誘いだった。  そして当日。綾子が連れてきてくれたのは、彼女が馴染みにしているいつもの居酒屋。  以前彼女のサークルの先輩に巻き込まれて合コンを行った店だが、二週間経った今では懐かしい思い出だ。 「ご馳走様でした。とても美味しかったです」 「ありがとう。笑顔で食べてもらえるなら、来週の週末から店で出しても大丈夫そうだな」  今回食した定食は、今後営業予定の休日限定ランチで提供される料理。  味や品数の感想が欲しい店長の頼みを、綾子と香奈が審査委員として評価することになった。  店についてからその話を聞かされた時香奈は驚いたが、馴染みの店の為に尽力する綾子のひた向きな姿に二つ返事で承諾し、美味しい料理を振る舞ってもらったのだった。 「細かい感想は後で言うとして――店長! 例の物をお願いしますっ!」 「あいよ!」 「……例の物?」  食後に出してもらった熱い緑茶をすすりながら、香奈の目の前で綾子と店長が息の合った動きを見せ、事態を把握する前に香奈の前に紫色の風呂敷に包まれた日本酒の一升瓶が置かれる。  堂々たる存在感を放つその包みを、香奈はまじまじと見つめながら、中身の隠された品を指差して尋ねた。 「綾子、これって……」 「純米大吟醸でございます」 「……ん?」  どうして急にそんなものを、と疑問に思った香奈の前で、綾子は突然頭を下げた。 「香奈、本当にごめんね!」 「ど、どうしたの⁉ 急に……」 「香奈は全然触れないからこっちから触れるけど、二週間前のこと! 私、まだちゃんと謝ってなかったから!」  二週間前のこと。綾子がそう言った出来事は、あの合コンに巻き込まれた夜のことだろう。  その件については綾子に一切の非がなく、また、彼女は謝ってないと言うが、週明けにあのタザキという男性から話を聞いたと言って、綾子は何度も謝っていた。  もう過去の話であり、香奈としては綾子が自分を責めるような真似をしてほしくはないが、彼女の中ではまだ区切りがついていないのだろう。 「綾子、気にしなくてもいいよ。前に話した通り、あれはたいしたことじゃ――」 「たいしたことじゃないって、本当に言い切れる?」 「それは、その……」  親友ながら痛い所をつくと思いながら、香奈は相手にかける言葉を模索した。  確かにあの後に起きた出来事を『たいしたことじゃない』と流すのは難しい。最終的には互いの想いを伝え合い、誤解も解けたが、そこに至るまでには色々とあったのだ。  だからと言って、過ぎたことで親友を責めるわけにはいかず――ましてや、非がない相手には何も言うことが出来ない。  それでも今回の一件に区切りをつけられない綾子を前に、香奈は差し出しされた一升瓶を受け取る。 「分かった。じゃあ、これはありがたく貰うね。雅治さん、日本酒大好きだから」 「うん。ぜひ、貰ってほしいな」  小さな安堵の息を洩らした綾子。そんな彼女の前に、香奈は鞄から取り出した一通の手紙を差し出す。 「その代わり、綾子はこれを貰ってね。店長さんも、どうぞ」  鞄から取り出した手紙のもう一通を、食器を片付ける店長に手渡し、香奈は微笑む。 「香奈、これは?」 「年末年始に港の倉庫街で開かれる、全世界の酒造メーカーによる酒豪の為の祭典――」 「「極採色(ごくさいしき)酒天博(しゅてんはく)‼」」 「――の、招待状と飲み放題パス。時間があれば行ってほしいな」  極採色(ごくさいしき)酒天博(しゅてんはく)。  年に一度行われるこの祭典は、日本全国・全世界から酒造メーカーが会場となる倉庫街に出張店舗を開き、自社の銘酒を振る舞う大規模イベント。  飲酒をメインとしたイベントの為、それらに合う酒の肴として飲食店も多数出展する、酒豪のみが集い宴を堪能することをメインに開催されている。 「このイベント、参加申し込み倍率が毎年すごいんだよ! 入場には人数制限があるから、毎年応募しても、一回当たれば幸運なくらいの高倍率! 日本にはまだ入荷販売されていないワインやウイスキーのメーカーも出店するから、関係者用の抽選に外れた卸会社や飲食店も一般枠で参加を狙う、酒好きによる参加権の争奪戦は必須の祭典!」  招待状を持つ手を震わせながら、綾子は息継ぎの間もなく熱く語る。 「しかし一度その場に足を踏み入れれば、世界中のありとあらゆるお酒を堪能し、最高の一日を送ることの出来る夢のような祭典。代々日野家の人間が何度チャレンジしてもチケットがご用意されることはなく、毎年ニュースで会場の様子を見る度涙し、私も二十歳の誕生日を迎えた時に、生きているうちに一度は行ってやると心に決めた聖地! そのチケットを、手にすることが出来るなんて……‼」  手を震わせながらも、ついには天に掲げて喜ぶ綾子の姿に、価値をあまり理解していなかった香奈は、そこまで貴重な品だったのかと驚きを隠せなかった。  この手紙を渡された時は、映画の入場券を渡すような手軽さだった為、綾子が震えるほどの重みは彼女には分からない。 「――って! なんで香奈がこんなプレミアチケット持ってるの⁉ この抽選って、毎年九月には応募は締め切るし、一枚ならず二枚も入手して、しかも飲み放題のパス付き⁉」  香奈だから転売ヤーから買うなど悪徳な手段で得てはいないと信じながらも、出所について真実を述べよと迫る。  綾子の切迫した表情に気圧されながら、香奈は嘘偽りのない真実を述べた。 「私が手に入れたんじゃなくて、雅治さんから渡してほしいって頼まれたんだよ。二週間前のあの日、気を遣わせてしまったお店の店長さんと――私を守ってくれた親友の綾子に、お礼として」  ホテルに宿泊した翌朝。  香奈は大事なことだと思い、居酒屋での出来事と、店先で話していた見知らぬ男性について雅治に全てを説明した。  その際、合コンを抜け出そうとする自分を帰そうと尽力してくれた綾子と、この店のスタッフと店長について話し、雅治は手助けしてくれた人たちへの感謝としてこの招待状を手配した。 「いつ会えるか分からないから、お酒好きな二人が喜びそうな品をお礼に、って」  プロジェクトを担当している同期に話したら、チケットを分けてもらえた。  ……という裏話はしないでおこうと、香奈は雅治から聞いた話の後半部分を呑み込む。  目の前で目を輝かせて招待状を眺める酒豪の二人に、水を差すのは野暮な話だからだ。  今は喜んでもらえたことを幸せに思いながら、雅治に頂き物の日本酒を持ち帰る旨をメールで連絡しようとした時だった。  新着メールを伝えるロック画面を開き、香奈はスマートフォンのディスプレイに表示された内容に目を通す。 [今晩は外で食べないか?]  今朝、夕食のリクエストを尋ねた際に、雅治は昼頃までに決めてメールを送ると言っていた。これはその返信なのだろう。  珍しい雅治からの外食の誘いに驚きながらも、たまにはそういう日があっても楽しいと、香奈は嬉しそうに笑いながら、準備をして帰宅を待っている旨を伝えた。 「もしかして、叔父さんからのメール?」 「――っ⁉」  いつの間にか背後に回っていた綾子の声に驚きながら、香奈はにやけた口元を隠して頷く。 「やっぱりか~。念のため言っておくと、隠してもにやけているのはバレバレだから」  彼氏のいない自分に惚気話を延々と話さないだけましだ、と綾子はサークルの後輩を思い出しながら、改めて隣の席に座り直し、幸せそうな香奈を見つめる。  いつの間にか店長は店の奥に下がり、その理由を聞くと、先程の招待状を神棚に上げて大切に保管してくる、とのことだった。  そこまでの大事になったことに香奈は苦笑しながら、二人は店長が席を外した店の中で内緒話を始める。 「叔父さん――雅治さんとは最近もいい感じなの?」 「うん。毎日が楽しくて、充実しているよ。最近だと、一緒に料理をするようになったし」  慣れない作業だと度々ぼやきながらも、彼は真剣な面持ちで野菜を切っていく。  見ているこちらが心配になるほどの手つきにはヒヤヒヤしてしまうが、そんな時間も楽しいと、香奈は雅治の姿を思い浮かべながら笑った。 「幸せそうなら何よりだよ。やっぱり香奈は、笑っている顔が一番いいね」 「そうかな? そう言われると、少し恥ずかしいけど……」 「恥ずかしがらないでよ。素面で言っているこっちだって、恥ずかしいんだから」  普段は面と向かって言うことがない言葉を交わしながら、二人は羞恥心から頬を赤め、目が合うと互いに「顔赤いね」と言って笑い合う。 「……けど、真面目な話。本当に嬉しいんだ」  照れ隠しで笑い合うことを止めた綾子は、声のトーンを少しだけ落ち着かせ、普段は見せない大人びた顔を覗かせる。 「今の香奈って、無理に笑うことは無くなって、心の底から人生を楽しんでいるって感じがする。私はずっと、香奈にも笑ってほしいって願っていたから、その表情を見られて嬉しいよ」  そう言った綾子が脳内で描くのは、時折、無理をしてでも笑う香奈のぎこちない笑み。  自然体の笑顔は多かったが、時折見せるその表情を見るのはつらく、だからこそ、今目の前で笑う香奈の姿に彼女は安堵の息を吐いた。  親友思いの優しい綾子に、香奈は心配をかけていたことを反省しながらも、ここまで大切に思ってもらえたことを嬉しく思う。 「ありがとう。綾子は本当に優しいね」 「まぁね! ――って言っても……」  そこで綾子は一度言葉を区切り、自嘲する。 「窓から飛び降りようとした私を、命がけで引き留めた香奈には敵わないけどね」  二人が出会った中学校時代の事件を思い出しながら、綾子は自嘲する。  息苦しかった学生時代。周囲と合わせなければという窮屈な環境。人と違うことをすれば異質扱いされる、常識という名の固定概念まみれのルール。  すべてが鬱陶しく感じ、逃げ出すように窓から飛び出そうとした綾子を止めたのは、一緒に落ちてしまうかもしれない危険性を顧みずに、彼女を引き留めた香奈だった。  クラスも違えば、面識はトイレですれ違う程度しかなかった相手に対して、自分を犠牲にしてでも助けようとする根っからのお人好し。その後も幾度となく気にかけて、同じ時間を過ごした、鬱陶しいほどのお節介焼き。  その縁があって今、二人はこうして同じ大学にまで進学し、親友という付き合いは続いていた。 「人生の恩人には、幸せになってほしいんだよ。を選んでもさ」  綾子が言った『どんな道』という濁した言葉の中には、香奈と雅治の関係性についても含まれているが、その事実を具体的な言葉にして指摘するつもりは彼女にない。 「どんな道を選んでも応援するし、何があっても私は親友でいるから。周りなんて気にせず、好きなように生きて、人生楽しんで笑いなよ」  親友からの心からエールを受け止め、香奈は強く頷く。 「もちろん! 綾子が『その惚気話聞き飽きた~』って言うぐらい、幸せになるよ!」 「その意気だよ! けど、彼氏いない人間にその仕打ちはやめて~!」  後輩からの惚気話だけで充分ですと耳を塞ぐ綾子をからかい、二人は変わらない友情を笑った。 .
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