【第一話】居候生活初日 ~叔父と姪っ子~ 

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 不穏な空気の中で迎えることとなった居候生活。事の起こりは、数時間ほど前に遡る。  十一月の冷たい風が住宅街を吹き抜ける。  大荷物を持った女子大生はスマートフォンの地図アプリを頼りに歩き続けると、目的地の前で足を止めて深呼吸した。  今この瞬間の緊張は、大学の入学式以来かもしれない。  ここまで引きずってきた愛用のキャリーバッグ。持ち手を握る手はじんわりと汗をかき、自身の湿った手の平に、高槻(たかつき)香奈(かな)は乾いた笑いを洩らした。  大手企業とはいえ、一般の会社員が暮らすマンション。事前の情報から想像していた建物は雨風で壁が薄汚れた、ありきたりな建物だったが、目の前に映っている現実は違う。  マンション先には剪定された木々が並び、外部から敷地内が覗けないよう並列に植えられている。  防犯カメラが設置された入り口からエントランスに足を踏み入れれば、白砂利が敷き詰められた中庭を覗くことができ、プランターに植えられたハボタンが入居者を迎えた。  建物の中は黒を基調とした壁が続きながらも、所々に白とグレーのタイルが埋め込まれたシックなデザインで統一されている。二基あるエレベーターは正常に稼働し、共有スペースであるエレベーターホールや廊下にはごみが落ちていない、清潔な環境が保たれていた。  想像以上にお洒落な雰囲気のマンションに臆しながらも、香奈はマンション内へ進んで行くと、四階のとある一室の前で足を止める。  緊張から早くなる鼓動を落ち着かせるように、一度の深呼吸で気持ちを落ち着かせると、気持ちを改めてドア横のインターホンに人差し指を伸ばした。  この二十一年。一度も会うことのなかった叔父と対面を果たす為に……。  ――※――――※――――※―― 「……叔父さんの所に?」  香奈が父である高槻(たかつき)信利(のぶとし)の発言に首を傾げたのは、彼女が顔も知らない叔父の元へ向かう一週間前。  両親が一週間後に控えた出張の荷造りを進めている傍らで、香奈は取り込まれた洗濯物を畳みながら信利の次の言葉を待った。 「母さんとも相談したんだけど、やっぱり香奈を家に一人にするのはどうかと思ってね。だから、父さんたちが戻るまでお世話になるといいよ」  色の違うネクタイを数本選びながら、信利は手を止めることなく香奈と会話を続ける。彼の視界の端で香奈は僅かに眉を顰めたが、信利は気にすることなく荷造りを行なった。 「そんなに心配しなくても、事情を話したらおじいちゃんもおばあちゃんも、声をかけてくれたから大丈夫だよ。話はつけてあるから、香奈も荷物の準備を忘れずにね」 「けど私、叔父さんとは一度も会ったことないし……」 「そうだったかな? じゃあ今回が初めての顔合わせだ」  機会があってよかったと笑う信利を前に、香奈は溜息をついて愛想笑いを浮かべるしかなかった。  父の弟――自分にとって叔父と呼べる存在がいることを香奈は知っていた。両親の会話や、帰省の際に祖父母の口から叔父の話題が何度か出るたびに、それが耳に残っていたからだ。  しかしお盆や正月といった節目の行事で祖父母の実家に帰省しても、叔父と顔を合わせることは一度もなく、今の姿を写真で見たこともない。  香奈が知っているのは叔父の名前と、自身の父親と叔父が再婚の連れ子同士で義兄弟となった関係性だけだ。  親族でありながら面識が一度もない叔父の元に、約一ヶ月もの長い期間お世話になる。  不安は胸の奥に重く落とされたが、『大丈夫だ』と楽観的に笑う父親の姿を前にしてはこれ以上気持ちを吐露しても右から左に流されるだけだろう。  せめてお世話になる叔父に迷惑をかけないように気を付けよう。  香奈は覚悟を決めると同時に、最後の洗濯物を畳み終え、平積みにした洗濯物の山を手にして立ち上がった。 「分かった。じゃあ私は叔父さんの所に行くけど、お父さんもお母さんも出張気を付けてね」  手にした洗濯物を衣類の荷造りを進める母に手渡して、香奈はにっこりと笑ってみせた。  ――※――――※――――※――  あれから一週間が経ち、早当日。  大きな荷物をまとめた段ボール二箱は、事前に宅配便でこのマンションの叔父の部屋に届けてもらい、休日の今日、居候として香奈はお邪魔することとなった。  人差し指で押したインターホンの音を耳にしながら、香奈は静かな廊下で小さく溜息をつく。  マンションの立地は、香奈が通う大学とアルバイト先からの交通の便は良い。また、ここに来るまでに見つけた近所のスーパーは、品揃えが良い上に営業時間も長い。生活環境は充分と言っていいほど整っていた。  あと問題を挙げるとすれば、それは人間関係のみ。  人並みのコミュニケーションはとれると自負していても、初対面の叔父の元で押し掛けるような居候生活を送ることには若干の抵抗がある。  『不愉快だから出ていけ』  などと言われて追い出されないよう、改めて気を引き締めた時だった。 「……ったく、誰だよ……」  分厚いドア越しに男性の声が聞こえ、香奈は身構える。  微かに聞こえた声と共に、こちらへ近づく足音はドアの前で止まると、静かな廊下に鍵の開錠音が響いた。  ドアはゆっくりと、こちらに向かってくる形で開き、 「どちら様ですか?」  開いたドアの先で、男性は怪訝そうな顔を香奈に見せた。  年齢は三十代後半。香奈からすれば一回り年上の人物で、父の信利からすれば一回り歳の離れた弟。  グレーのスウェットを上下に着た彼は、香奈とは違うこげ茶色の瞳で彼女を見下ろし、小さく欠伸を漏らして相手の反応を待った。  しかしそれは最初だけの対応となり、相手がなんの反応も見せないと、彼女の漆黒の瞳に目線を合わせ、もう一度口を開く。 「部屋を間違えたなら、もう戻っていいですか? 人を探しているなら、一階の管理人室で聞いてください。それじゃあ」  そう言い残してドアを閉めようとする男性の姿に、香奈はようやく我に返って、慌てて閉まるドアに手を挟み込んで声を上げた。 「あ、あの!」 「……何?」 「えっと、確認なんですが。貴方が、高槻(たかつき)雅治(まさはる)さん、ですか?」  マンションの住所と部屋番号を確認した上で、この部屋のインターホンを鳴らした。  しかし自分が探している“叔父”は顔も知らない相手。挨拶をする前に確認しなくてはと、香奈は勇気を出して尋ねる。  香奈の言葉を聞いた男性は閉めかけていたドアの力を緩め、彼女も籠めていた自分の手の力を抜いた。 「そうだけど。アンタはもしかして、高槻香奈?」 「はい、そうです。ご挨拶が遅れてすみません」  事前に話が通っていた為、すぐに気づいてもらえたのだろうか。  内心で良かったと安堵し、改めてこれからお世話になる叔父に挨拶をしようとした。  が、その体はすぐさま硬直して動かなくなってしまう。 「なるほど。アンタが、ね……」  まるで物を品定めするかのような、見下した冷めた視線。  二人の身長を比べると香奈の方が低い為、見下ろす形で話す姿勢になってしまう。しかし彼が向ける視線に悪意があることは、初対面の香奈でもすぐに分かった。  相手を不快にさせる行動はとっていないつもりだが、自分は何かしてしまったのだろうか。  疑心暗鬼なった香奈は、比があれば早期に謝罪したかったが、原因に心当たりはなく、叔父の雅治も原因の指摘はしない。  ただ相手を黙ったまま見下し、居心地の悪くなるような視線を向け続けるだけ。逃げたい衝動に駆られても、香奈がこの場を立ち去ることは出来ない。  どうにかしてこの場を一転させたいと焦る彼女の前で、変化を与えたのは当人である雅治の方だった。 「合鍵」 「……え?」 「合鍵、兄貴経由で事前に渡したはずだよな? なら、インターホン鳴らさずに、ちゃんとそれ使って。徹夜明けで起こされるのは、気分悪いから」 「はい。すみません、でした……」  恐る恐る、逸らしていた視線を戻して雅治に合わせれば、彼はまた欠伸を一つ洩らす。  相手を不機嫌にさせた原因。それは、寝起きの彼を起こしてしまった自分にあったのではないか。  雅治の不機嫌な理由が分かった気がしても、香奈の心の隅には何かが引っ掛かって取れそうにない。  不機嫌な態度を見せた理由は、本当にそれだけか、と。  彼女の中で解決しない疑問が浮かぶも、相手の雅治は玄関先で喋ること止め、香奈に部屋の中へ入るよう促す。  戸惑いながらも「お邪魔します」と言いながら香奈は家の中に足を踏み入れ、その後ろで雅治がドアの鍵を施錠した。 .
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