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彼女と別れたのは、確か10年前の2月、まだ道路脇に雪が残ってる、風が強い日の事だった。
一緒に暮らしていた1LDKの部屋のカギを机の上に置き、何も告げる事なく彼女は出て行った。
机の上には「好きな人ができたなら、ハッキリとそう言って欲しかった」と丁寧な文字で書かれていた。
手紙に向かって何度「誤解だ!」と叫んだのかわからない。元々友達が少なかった彼女の行方もさっぱりわからない。
どれだけ涙を流したかわからない。
けれど、人間は非常なものでだんだんと時が経つにつれ、流れる涙の量も減っていった。
時の流れは、いい思い出も悪い思い出もあっという間に綺麗さっぱりと流してしまう。
今あるのは現実だけだ。
彼女が部屋を出て行って10年が過ぎた今日、偶然は起こった。
大阪に出張に出かけ、1日目の予定を消化した午後6時のことだ。
前を歩く女性のポケットから、何かがするりと滑り落ちた。慌てて拾うとスマホだった。
「すいません!」と呼びかけると、振り向いたの女性はあの彼女だった。
目と目が合った瞬間、お互いに気がついた。
「あっ!」
道行く人が怪訝そうに見つめる中、俺たちはしばらく見つめ合ったままだった。
「元気?」
最初に言葉を発したのは彼女だった。どちらからともなく誘い、近くにあった彼女行きつけのバーに行く事になった。
バーのカウンターに座り二人で話し込む。彼女は現在、長年の夢を叶え、大阪のテレビ局でメイクを担当しているそうだ。
どうりで昔より綺麗になり表情が明るくなったはずだ。
そして彼女は俺の結婚指輪を目ざとく見つけた。
「結婚してるの?もしかして智恵と?」
俺は彼女がいなくなった後、彼女の一番の親友であった智恵と結婚した。
智恵には彼女を探してもらったり、落ち込んでるところを励ましてもらったり、相当世話にはなった。
けれども違和感を感じる。智恵と付き合うようになったのは、彼女がいなくなってから2年後の事だったからだ。
どうして智恵と結婚したことを知っているのだろう。
思い切って彼女にその疑問をぶつけてみる。
「何で俺たちが結婚した事知ってんの?知らない間に智恵と会ったのか?」
彼女はフッと笑いながらこう言った。
「何言ってんの?私と付き合いながら智恵とデートしてたのはそっちでしょ?」
俺の頭の中には?マークがいくつも増えた。
そして、ある仮説が頭を横切った。
「あのさ、もしかして俺と智恵のこと疑ってたの?」
「疑ってたのも何も、私と付き合っておきながら、智恵にも告白したんでしょ?」
彼女が首を大きく傾げながらそう言った。
「‥‥告白も何も俺が智恵と付き合ったのは、お前がいなくなってから2年後のことだよ」
俺も彼女も10年目の真実にようやく気づくことができた。
智恵が俺たちを嵌めたのだ。
重苦しい空気が流れる。
自分の妻が俺がかつて一番愛した人との仲を引き裂いていた、
今朝も行っらっしゃと笑顔で見送ってくれた智恵の笑顔が思い浮かび、寒気がする。
十年前と何ら変わらず彼女を愛おしく想う気持ちを思い出している。
彼女が好きだったライムサワー、好きな紫の色のカーディガン、真っ白な雪肌。全てが鮮やかに甦る。
彼女を見つめると、10年前と変わらず心臓が高鳴っていた。
10年の間に彼女を好きじゃなくなったわけではない、ただ彼女を考えないように生活していたのだ。
彼女を幸せにしたかった、ただ彼女が笑ってくれさえすればそれでよかった。
二人で小さなケーキを囲み誕生日を祝った時、湯沸かし器が壊れて、猛吹雪の中銭湯まで命がけで歩いた時、資格試験の為に徹夜をしていた彼女の為にベチョベチョのお粥を作って彼女が泣いて喜んでくれた時。
二人で居られればそれでよかった。二人でいれば何にも怖いことはない。
彼女に降りかかる不幸を全部蹴散らし、守ってあげたい。
今だって同じ気持ちだ。
「ねぇ、これから家に来ない?」
彼女がそう言って十年前と同じく少し恥ずかしそうに笑った。
今すぐにでも彼女を抱きしめて、二人だけの世界に行きたい。彼女も同じ気持ちなのだろう。
けれども俺は首を横に振った。
「遠慮しとくよ、妻に怒られるからさ」
彼女の方を見ないようにして、立ち上がると「じゃあ」と挨拶をしてレジで会計を済ませた。
店を出ると涙が出た、手先が震えている。それでもなんとかホテルへと向かって一歩歩き出す。
確か新大阪駅のすぐ近くだったはず。
携帯がけたたましい音を立てて鳴った、見ると彼女と俺を引き裂いた、そして妻である智恵からだった。
携帯の電源を切った、もう智恵に愛情はなくなった、むしろ今は憎しみすら感じている。
けれども自分には子供達がいる。
子供達の為に家に戻る頃には、仲良し夫婦を演じなければいけない。
下の子が成人するまで、あと18年。
耐えなければいけない。
彼女の事は何より大切だ。けれど子供達のことも大切だ。
彼女はきっと俺よりいい奴と必ず出会うだろう。
彼女には幸せになって欲しい、それが唯一の希望だった。
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