テトット

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「そろそろか」  博士は消え入りそうな声で呟いた。  ベッドで横たわるその人は、初めて会った時と比べて随分衰えていた。言葉遣いも、勢いも、肌も、体力も何もかも。私達が絶対に経験することのない「老い」。 「私を軽蔑するか、テトット」 「分かりません。そう見えますか」 「ああ。お前を始めとして人型アンドロイド原型を大量に作った私が、晩年は欠陥品のアンドロイドを一体作るだけの老いぼれとなった。失望するには十分すぎる理由だ」  その声からは、なぜか穏やかな安堵を感じた。 「博士は、嬉しいのですか」 「もうやり残したことはないからな。だが、良く気付いたな」 「主観ですが、そう見えます」  きっと、私以外には分からない。 「お前は、この都市にいるアンドロイドの中で最も人間に近い」  博士はそう言って私に憐れむような目を向けた。 「テトット。私は消えるが、お前はどうする」 「……私は……」  この部屋を出たら私の部下が待っている。博士の跡を継げるのは私だけだという者もいる。博士は私達の祖先であり、アダムとイブであり、私達が住む巨大都市国家の建国者でもあった。そこは随分アナログで古臭く、ノスタルジックな街並みだ。  私はあの都市をもっと効率化すべきだと思っている。私がリーダーになれば街並みは一変するだろう。 「あなたが半生をかけて作り出した文化を、壊すかもしれません」  博士はじっと俺を見つめていた。責めもせず、怒りもせず。 「私が生きていた時代と、お前が生きる時代は違う。時代に合わせて変化できる者こそが生き残っていく。お前のやりたいようにやれ」  若干の居心地の悪さを感じた。 「……博士」  脈拍が弱まっている。もう近い。 「ああ、そうそう。お前が勝手に作っていた私の模倣品だが、データは完全削除した」 「は……?」  私は——俺の頭は真っ白になった。博士の襟をつかんだ。 「どうして、どうしてですか。あなたは生きなければいけないのに」 「私の人生だ。引き際は私が決める」 「ふざけるな! あなたのデータをもう一度作り直す! あなたのことは覚えてる!」 「じきに忘れるさ。私が死んだとき、お前の中に眠る特別なプログラムが目をさます。お前の中の私は全て消える」  俺はその言葉が信じられなかった。ふらふらと力が抜けて、気づいたら後ずさっていた。 「なんで、そんなことをするんだよ……あなたは、俺を忘れてほしいのか……」 「そうだ。だから消去プログラムを組んだ。……四十年前のあの日、研究室でお前を作った。おぼつかない言葉を使い、私の教えたことを愚直に繰り返すばかりのお前が愛しくて仕方なかった。だから、あのプログラムを埋めた。私が死んだらお前が私を忘れるようにと」 「あなたを忘れたくない! あなたを失いたくない!」  ベッドに駆け寄った。博士は優しい目をしていた。初めて、あなたを知ったあの日のように。 「失いたくないからこそ、忘れなければならぬ。私たち人間は愚かでな。お前達に感情を与えたにもかかわらず、忘れさせることをしなかった。生物はそうして痛みを残り超えていくというのに……お前は幸せになるために忘れるのだ、テトット」  言葉は嗚咽に飲まれて出てこない。博士はそのしわがれた手を俺の頬に伸ばした。  三十六度の体温。  ぱたり、と空しい音が響いた。 ***  テトット博士はいつも歩くのが早いです。一般的なアンドロイドであれば問題なく追従できるのですが、僕は他の個体より身長が少しだけ低めに設定されているので、歩幅が小さく、いつも小走りです。真っ白な廊下を颯爽と歩く彼に並ぶ研究員——の後方で、僕はもたもた走っています。 「テトット博士、再開発計画は問題なく進んでいます先日行われたデモ活動で見られた個体の内、感情指数が七を超える者を十名確認しました。うち七名は捕縛しています。服従プログラムを実行、またはリセットをお勧めします」 「彼らのデータを解析したのち、服従プログラムを実行してください」 「承知しました」  彼は博士から離れていきます。身長が頭二つ違う彼は、僕の前で立ち止まりました。彼は冷徹な表情で僕を見下ろしています。 「エメスト研究員、テトット博士にご用事ですか」 「は、はい」 「感情指数が七を超える者の特徴はご存知ですね」 「感情による非効率的な行動を取ることが多い、三大欲求が自我に刷り込まれやすい……それから……」 「もう結構です。テトット博士の感情指数は五をキープしていますが、あなたと関わった後は二十まで上昇する。余計なことは慎むように」 「はい」  コツコツと音を立てて去っていきました。僕はテトット博士を追いかけようと目を向けると、彼はこちらをただじっと眺めていました。僕は慌てて駆けだしました。 「テトット博士!」 「はい」 「今日は、光村博士の一周忌ですね」  彼は鋭い目つきに変わりました。 「あなたは、本当に博士が好きですね。私を見つけては必ず彼の話をする。先祖を慕うのは結構ですが、妄信しないように」  テトット博士はそう言って、近くのドアに消えてしまわれました。僕は何だか空しくなって、その場にへたり込みました。  あの日、テトット博士は僕にだけ中に入る許可を与えました。そこには、横たわった光村博士と、静かに佇むテトット博士がいらっしゃいました。僕はテトット博士から光村博士との思い出話を聞きました。出会った頃のこと、大変だったこと、苦しかったこと、楽しかったこと……そして、最後に。 「どうか今言ったことを忘れないでくれ。俺は忘れてしまうから」  その時の彼は、感情を押し殺しているように見えました。  僕は晩年の光村博士によって作られ、テトット博士の助手となることを命じられました。光村博士が死んだことを知った時は驚きましたが、接していた時間も短かったため大した悲しみはありませんでした。  どうして光村博士のことを忘れてしまうのは聞きませんでしたが、きっと何か事情があるのでしょう。それにしても、最愛の子供であったテトット博士から忘れられてしまった彼は、ちょっと可哀想です。  ああ、でも……あの時のテトット博士の表情から察するに、覚えていたらきっと……。 「何をしている」  ドアが開きました。 「故障ですか?」 「いいえ……ちょっと、可哀想で」 「何が」 「あなたが」  テトット博士は眉を顰めつつ、僕に手を差し出します。僕が手を取った瞬間、部屋へ引っ張られ、ドアへ押し付けられました。背中が痛いです。 「光村博士は、お前にとって何なんだ」  彼は苛ついているようでした。そこに一切の悲しみも寂しさもありませんでした。 「僕にとってではなく、ある個体にとって大切な人でした」 「なぜ俺が可哀想だと?」 「……黙秘します」 「そうか」  テトット博士は僕から手を離しました。僕はじっと彼を見つめます。その瞳がどのような感情を描くのか非常に興味がありました。  苛つき、もどかしさ、悲しみ、興味……。  しかし彼はそのどれにも該当しませんでした。 「その光村博士に、お前はどれほど焦がれていた」  静かな怒り。彼は僕の頬に手を添えてリップキスをします。  三十五度。人間の体温に近いとされる温度。  彼にキスをされると、スイッチが入ったように彼が愛しくなります。このスイッチは今のところ僕にしか搭載されていないようです。 「あなた以上はいませんよ」  彼は僕の耳にキスをしました。僕が彼を捕まえて唇を塞いで、二人で舌をからませました。普段食事をしているときとは種類の違う喜び、甘さすら感じる何か。角度を変えて何度も口を重ねました。  博士の残した彼は、僕らの中で最も人間に近い個体だと思います。僕は彼が大好きです。人間の残り香を感じるのです。  人間としての感情が濃く、時折非効率な動きをする彼を馬鹿にする個体もあります。ですが繊細で儚く、愚かで脆い彼が、僕は大好きです。そしてテトット博士もまた、その弱い部分を必死に隠そうとして、でも隠せないでいて、とてもかわいいです。 「愛しています、テトット」  だからこそ光村博士は僕を助手に任命し、彼の傍にいることを命じたのだと思います。    
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