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空の家族
この世の果ては海へとつながり、それでもずっと進んだ先には、空の家族が棲むという。
世界の果てが白み始める、夜更けの終わり。広い広い海を、ひとつの小舟が進んでいる。凪いでいるその海を、迷うことなく進む舟にはひとりの青年が乗っていた。赤いコートと目深にかぶった帽子は少しくたびれている。
手持ち無沙汰に彼はポケットから手のひら大の羅針盤を取り出した。誰も櫂を漕ぐことなく、その舟はまっすぐに進んでいく。青年は元々陸に生きるモノだ。ゆらゆら揺らぐ舟に乗るのも初めてだった。初めての航海は、ずいぶんと遠大な冒険になってしまった。
傍らには大きな鞄。膨らんだそれには様々な人々の「思い」が入っている。万が一にも海に落とそうものなら大変だ。
どれほど進んだ頃だろうか。行き道を指す羅針盤の不調を疑い始める青年をよそに、舟の先、左手は夜更けに沈みこむ宵闇の蒼に、右手に朝焼けのまばゆくも柔らかな暁の朱に染まる頃。あたりに少しずつ海霧が立ち込めだした。青年は鞄の中から古びたランプを取り出す。覆いを外せば仄かに光るそのランプに収められているのは、かつて歩んだ「雪灯り」 真白く染め上げられた雪の森を淡くも明るく照らしたその光を、少しいただいてきたのだった。
濃密な海霧に霞む世界はどこか柔らかな藤色をまとい出す。にじむような色彩の絵画の中を泳いでいるようだった。青年を乗せ、舟はまだまだ先へ進む。目的地は舟が知っている。青年はただ、仕事のために進むより他にない。
そのうち、霞む視界のその先にひとつの社が見えてきた。舟はそっと社の船着き場へ止まる。青年は手にした羅針盤を見て、目的地に相違ないことを認めてポケットにそれをしまう。鞄を持って舟を降りる。
どこか海に漂っているような、ともすれば空に浮かんでいるような、海と空のあわいに佇む社。人の気配はしなかった。けれど、からの社でもないのだろう。隅々まで綺麗に手入れをされていた。青年は懐中時計を見る。夜明けも終わる間際、明け方とのあわいのつかの間。世界が許したほんの少しの隙間の時間。青年が進む社の最奥、御簾の向こうにおぼろげな「かの人」の影が見えた。青年はかの人へ向けて膝を折る。
「はじめまして。暁を統べる空の御方。目覚めを司る空の娘。お忙しい中お迎えいただけたこと、大変嬉しく思います」
青年は会釈と同時にその目深にかぶった帽子をとった。こぼれ落ちる琥珀色の毛並みに、頭頂には狼の耳がピンと立つ。
空の家族は青年へ語る言葉を持たない。それでもこちらの意志を理解し、己の想いもある。元々青年も、彼らと同じ幻想の住人の血が色濃く交じるモノ。感覚はよく分かる。
青年が鞄を開いて取り出したのは、黄昏に染まる海を閉じ込めた丸いガラス瓶。暁の海とは違う色模様のガラス瓶は淡くほの明るく青年の手元を照らす。
続いて青年が開いた鞄の中からは、大きな羽ばたく音とともに一匹の鳥が広い部屋へと飛び出した。くるりと部屋の中を悠々一周りして、青年の肩に留まる。黒黒とした羽を幾度か羽ばたかせながらも、よくよく青年になついていた。
青年は月の眷属の血を引くが、半分はヒトの血が交じる混血種。青年にとって、暁の娘は対である陽の力が強すぎた。ヒトの気配が苦手なもの、青年の持つ体質との相性が悪いもの、そうした依頼人は多かった。そのため、実際に手紙を手渡すその役目は他の種族の助けを借りる。
ガラス瓶の送り主は暁の娘の弟である、黄昏の息子。この暁の社とちょうど対の果てにある、黄昏の社に棲む空の家族のひとり。暁の娘も黄昏の息子も、陽の父と月の母とは顔を合わせることもあるけれど、子どもたちだけは相見えることもない。
会えぬのならばせめてその息災を、と時折こうして「手紙」を送り始めたのは、青年がこの仕事を継ぐよりもずっと前のことだったそうだ。
ガラス瓶には手紙がくくりつけてあった。宵闇色のインクの文字は、青年には読めないもの。肩に留まった鳥はその爪で器用にガラス瓶を引っ掛けて、御簾の向こうへと飛んでいく。御簾越しの影が動き、向こう側の光が少し淡く黄昏を帯びる。
御簾越しの娘が鳥を撫でれば、彼はこちらへと戻ってきた。けれど鞄までは戻らず肩に留まる。この社から、またしばらくは舟旅となる。誰に見咎められるわけでなし、それもいいかと青年は鞄を閉じた。帽子をかぶって立ち上がる。
手紙に浸る娘を邪魔することなく、青年は暁の社を後にする。
薄紫の海霧を抜ける。
暁光に煌めく凪いだ海を舟が進み、まばゆい光を帯びて一羽の鳥が悠々とその空を飛んでいった。
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