日常と非日常の境界線

5/5
18人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ
 柔らかい日差しが入る真っ白な壁に囲まれた装飾品のない部屋で,怯える子供を前に古澤は笑顔で座っていた。胸には『古澤慶典』と書かれたネームプレートが光り,怯える子供に笑顔を見せながら優しく腕を持ち,慣れた手つきで細い針をゆっくりと刺した。  椅子に座る子供は母親に抱かれたまま大声で泣き叫び,たったいま目の前で柔らかい肌に針が刺さったことにショックを受けていた。 「痛かったねぇ〜。頑張ったねぇ〜。偉いねぇ〜」  古澤は針を抜くと母親に笑顔を見せてから,横にいる看護師に頷いてみせた。それを合図に看護師が母親を立たせ,子供にとって恐怖でしかないこの部屋から出るように促した。  何度も会釈をする母親に笑顔で手を振り,ドアが完全に閉まるのを確認したが,母親は最後まで古澤を見ながら会釈を続けた。 「ほんと,今年の予防注射はなかなか予約が取れなくて大変だったんですよ。でも,古澤先生のところが取れて本当によかったです」 「皆さん,そう言ってくださるんですが,なかなか全員分の予防注射が用意できなくて」  診察室の向こうで母親が看護師と話している声が聞こえたが,母親はこうやって古澤に自分をアピールしているのはわかっていた。  さっきまで子供の腕に刺さっていた針を舐めながら包帯で巻かれた腕を長袖のシャツの上から優しく撫で,ドアの向こうの看護師に向かって聞こえないように呟いた。 「お前は,昨日真っ二つにしてから細かく刻んであるんだ。そんなに当たり前に歩いたり話したりするんじゃない」  爪を立て強く握りしめた腕から血が滲み,シャツがピンク色に染まったと同時に降り積もるおが屑の中に埋まって真っ暗な天井を見ているときの快楽が甦った。爪がシャツに喰い込むと,次はそれほど時間をおかずに山へと行こうと震える手で腕を握りしめた。 「看護師さん,次の人を呼んで下さい。お願いします」
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!