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「このまま粉々に抱き潰したい」
これはセックスの後に言われた言葉だった。
新社会人として某有名ホテルで働き始めた私の最初の付き人が、夫だった。
夫は一アルバイトであったが、六年もの勤務経験があり新人指導に当たっていた。
「あ、初めまして、斉藤さん?私、早川です、早い川と書いて早川です。よろしくお願いします。」
「あっ、はい、お願いします。」
不思議な印象だった。
例えるなら、フリークショーの支配人のような不思議な不穏さを纏っていた。それは彼の痩せた見た目のせいかもしれなかったし、やけに丁寧でありながら、どこか上から目線な話し方のせいなのかもしれなかった。
一ヶ月一緒に過ごしただけで、彼はかなりの遅刻魔であることが分かった。そして、雑だ。
「斉藤さん、これ、ここね、ルームチェンジだから、必ず御案内の時にアメニティ確認してあげないと駄目、あと荷物、朝食、ディナー予約入ってたらもう最悪だから。」
私の目を瞬きも無しで見つめて言う。何か一つものを言う事に、細く骨ばった長い指を一本、また一本と立てるのだ。
そしてお決まりの台詞を言う。
「まぁー、俺、面倒だから確認しないけどね。」
事実、これでよく失態を起こし、上から散々怒られているが平気なのだ。
人に怒られると大きな口を困ったように曲げ、「いやぁ本当にすみません、本当にすみません、いやぁ、やっちゃいました。」毎回これだ。
きっと六年間、ずっとこれなのだろう。叱る側も、どうも途中で諦めているように見える。
「ねぇ、エッチしない?」
半年がすぎた頃、ふとそう言われた。
わたしは少し悩んだあと、小さく首を振って断った。はずなのに、一週間後にはホテルのベッドで声をあげて二人手を握りあっていた。
「あぁ、だよねぇ、偉いねぇ。」
そう言ったのだ。私がセックスを断ったとき、何故か私を褒めたのだ。そしてそこから一週間、私のことをまるでつまらないテレビ画面を見るような目で見るのだ。
私には、それが耐えられないほどの苦痛だった。
一度セックスをしたからといって付き合うわけでもなく、ただ、その後も何度も身体を重ねていった。
「私って一体なに?」
「え、斉藤さんは斉藤さんでいいんじゃない?」
その答えを言う表情は、まるで純粋そのもので、無垢というものがそれその物なのではないだろうかと思うほどだった。
そして私が妊娠を報告すると、長い指は煙草を掴んだまま「へぇ!やったじゃん!」そう言うのだ。
そこから二週間、私は待ってみたものの特に結婚のお誘いはなく、仕方なしに市役所に行き結婚届けを手に入れ見せつけると、なんの躊躇もなくその骨ばった指はペンを使い用紙をうめてみせたのだ。
「いやぁ、なんか凄いね!赤ちゃんめちゃくちゃ楽しみ!」
そんな言葉まで付け加えて。
勿論、人間というものはそうそう変われるものではない。夫は夫になったものの、何も変わらない。
「なんで子供の前で煙草を吸うの!?」
「どうして休日寝てばかりなの!?」
「子供がいるんだからしっかりしてよ!」
「どうしてパチンコにいくの!?」
「また借金つくったの!?」
どうして、なんで、またなの
私は妻になり、母になり、変わった。
「ねぇ、どうして変わってくれないの?」
私は、夫に変化を求めた。
お願い、お願い、お願い、お願い、何度も何度も泣いて頼んだ。その度に夫は「うーん」と低い声で唸りながら、自身の下半身を触るとぐっと伸びをして、「あぁ、エッチしたい。」と言うのだった。
「分かった。別居しよ。」
私の提案に、夫は眉間に皺を寄せて口を尖らせ「んん?」と一度聞いたきり声を発さないので、私は短い指を立てて、夫の目を瞬きせずに見つめて説明した。まるで馬鹿にするように。
「近所に住む。私と、子供。あなたは一人。そしたらあなたは休日ずっと寝ていられるし、煙草も吸える、仕事帰りパチンコに寄っても誰も気にしないし借金も自分の責任で楽しめる、ね?そして私はふつうに暮らす、あなたの世話をしなくていい。ウィンウィンでしょう?会いたい時には会いに来てオーケー。ご飯も食べにきてオーケー。ただし、常識の範囲内の時間でね、こっちには三歳の子供がいるんだから、遊びに来るなら夕方五時までには来て、夜は十時には帰るし、帰らないなら自分の着替えとか自分で用意してもってきて。どう?」
夫は時々欠伸を堪えるようなしょぼしょぼとした表情で聞いていたが、言葉が途切れた途端、我慢していた欠伸を存分にすると、二回ほど小さく頷いて微笑んだ。「うん、いいよ。」
別居から二ヶ月たっても夫が顔を出さないので、私は夫のアパートに小さな隠しカメラをつけた。
「ひどい。」
深夜、カメラの映像を確認しながらつい声が漏れた。
ゴミや食べもの、そして服や会社の書類などが床を埋めつくしている。
別居して、良かった
つい、心の中で安堵する。あんな夫、一緒にいたら私の方がおかしくなる、何もかも間違っているのだ。
それに、あのゴミ。
カメラに映る夫の頭元には丸まったティッシュが山のように重なっている。気味が悪い、本当に三大欲求だけははっきりとしていた。
一ヶ月事にカメラを確認していたが、丸まったティッシュだけがどんどん部屋を埋めていくようなった。
それから半年以上が過ぎて、あのティッシュが降り積もる雪のように部屋を白くしていく頃、夫はひょっこり現れた。
「すごくない?俺が休日にこの時間、起きてるって!あー、お腹空いたぁ!」
夫のさす、この時間、とは昼をとうに過ぎた午後二時のことだった。
私は冷凍にしてあったハンバーグをあたためて、目玉焼きをのせてだしてやる。夫は野菜を好まない。美味しそうに飯を食べる夫を見ていると、無性に腹が立った。
「もっと早く来てくれてもいいじゃない!それに!自分を変えて一緒に暮らす努力をするとかないの!?」
夫についでやったカルピスのペットボトルを握りながら、私は気がつくと泣いていた。私も子供もカルピスなんて飲まない。きっとすぐに夫が来るだろうと前前からかっておいたものだった。
「ごめんね。」
夫は小さな声でそういうと、「ケーキとか一緒に買いに行く?」と提案するのだった。
首を傾げて困ったような顔をしてそう言った夫を、私はまだ、鮮明に覚えている。
「ありがとうございました。」
私は参列者に頭を下げた。寿司を食べながら、故人の思い出話をする。葬式とは故人の為のものでない、残されたもの達の寂しさや罪悪感、孤独館を癒すためのものでしかないのである。
「あんたのせいで…」開口一番義母はそう呟いた。怒りと憎しみの表情が浮かんでいたが、そこに息子を失った喪失感は描かれていながった。
「俺の母親ねー、ちょっと面倒なんだよねぇ。」
夫はそういう言葉をよく使った。初めて会った時、人当たりの良い笑顔で私を迎え、手作りの夕飯をご馳走してくれた義母。
「もうねぇ、うちの息子ほーんとに駄目だから、よろしくねぇ。」
そう言って肉じゃがを運んできた腕には、薄らと自傷の後が見えた。
「お義母さん、借金ができてしまって、」ある日は私の言葉を聞くと、義母は大きくため息をついた。
「だから嫌なのあの子!もー、私ね、ごめんね、あのこのこと怒りたくないのよ、言うこと聞かないんだもん、いいよもう捨てちゃえば。」
そう言っていた義母は、憎しみを込めて今、私を睨んでいる。
夫が珍しく訪ねてきてから一週間たった日、会社から連絡が入った。
「早川くん、きてないんだよね。」「はぁ。」
私は心底面倒だという気持ちをおさえつけ、あの恐ろしいごみ屋敷に足を踏み入れたのだ。
異臭のこもる部屋の中で、夫はいた。
身体を胎児のように丸め親指を噛み、夫は眠るように死んでいたのだ。
白いティッシュが、まるで雪のように積もり、寂しい冬の中泣き疲れてしまった子供のように。自身の悲しい欲望に埋もれて、死んでいた。
火葬場に夫が運ばれていく。
重い扉が綴じて、場が冷たくなった。私は気がつくと、夫の名前を呼びながら泣いていた。
「まこと、まこと、まこっちゃん、まこっちゃん、まこっちゃん、」
私の可愛いまこっちゃん。
ずっと寂しかったまこっちゃん。
私を求めて無邪気に生きていたまこっちゃん。
大人になれなかったまこっちゃん。
私のたった一人のかけがえのない夫は、最後まで私に愛されようとしていたのに。
もう見ることの出来ない無垢な笑顔を私は胸にかかえ、限りない彼からの愛の叫びを私は感じていた。
「ねぇ、エッチしない?」
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