愛に溶ける人魚姫

5/9
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ
 男は逡巡した後、人魚を殺せ、と一人だけ控えていた者に命じた。その言葉を発するのに少しの間があいたせいで、女が憎しみを込めた瞳を向けたことに男は気が付かない。女を取るつもりだったならば、血に染まった人魚に目を奪われる前に駆け寄るべきだったのだ。  人魚は美しいしおとなしく従順で鑑賞に最適ですよ、という買ったときに聞いた密売人の声が、男の脳裏に響く。嘘つきめ、と男は脳内の密売人を怒鳴りつけ、動き出さない者に焦れて自ら拳銃を手にした。  しかし、男は動きを止める。拳銃片手に人魚を狙う男に向けて、人魚が必死に何か話していたからだ。この人魚の声が出ないことを男は知っていた。男は思わず言葉を聞き逃さないように、ゆっくりと口を動かすのを眺めてしまう。そんな男の様子に苛立った女は、男から拳銃を奪い取ると人魚に向けて引き金を引いた。  弾は人魚に当たることなく、天井にめり込む。女は再度引き金を引こうとするが、男の手がそれを止めた。  声を失った人魚は必死に、海にかえして、と繰り返す。男の耳元で女は金切り声をあげ、早く殺して、と叫ぶ。  愛情を向けた者と、楽に生きるのに必要な者。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!