初恋と花婿

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初恋と花婿

 あれから十年の時が経った。黄色いパーティードレスに白いレースのストールを身にまとった百合は、一人使いにしては広すぎる結婚式の控室にいた。広すぎるテーブルには一人分のお茶のペットボトルと、小さなかごに入ったお菓子が置いてある。この部屋からは滝と池と草木が織りなす美しい庭園が見える。先日降った雪が池を囲む低木に残り、まだ東に傾いている日が滝を落ちる水に反射して輝いていた。  百合ははあっと静かに息を吐いてみた。当然、白い息は出ない。広い部屋だけれど、よく暖房が効いているから、ストール一枚羽織っていれば寒くないのだ。しかし、こんな感傷的になる日は意味ありげに息を吐きたくなる。  庭は美しいけれど、特別好きなわけではないからずっとは見ていられない。百合は腰を落ち着けようと、窓際から離れた。そして、椅子に足を向けたそのとき、壁際に置かれた姿見に百合が映った。ぴかぴかに磨かれて指紋一つ付いていない姿見は、大きな窓から差す日の光を受けた百合をありのまま映し出した。  こんな恰好しちゃって。  自身の姿を見た百合は、自分で呆れた。  インターネットでドレスの一着ぐらい借りられる時代に、百合はわざわざ店頭に足を運んで、一時間もかけてこれを選んだのだ。それもいくらかランクの高い、値の張る品で、ストールだってわざわざオプションを付けて借りたのである。ついでにメイク道具だって新調した。それもプチプラではなく、デパートコスメである。正直、金銭的には大きな負担だった。  でも、こんなこと一生に一度なんだから。 お金を払うたびに思ったことが、また百合の頭に浮かんだ。  百合はドレスの裾を指でつまむと、ひらりと離してみた。空気を含んだスカート部分がふわっと翻る。うん、我ながらよく似合っている。これを選んで良かった。  一人満足していると、突然ノックが聞こえた。当然、連れなどいない百合には心当たりがない。 「はい」  百合は恐る恐る返事をした。何かいけないことでもしたのだろうか。  すると、すぐにドアが開いた。  現れたのは、白いタキシードの人物だった。足許はぴかぴかに磨かれた白い革靴、黒く短い髪は整髪料できっちりセットされている。その人は百合の初恋の人で、初めての恋人で、本日主役の花婿の信吾だった。 「あら、どうも。お久しぶり」  百合は警戒を解き、信吾の方を向いて小さく頭を下げた。 「久しぶりだな」  信吾も軽く頭を動かして応えた。その動きは大袈裟に言うとロボットみたいで、何となくぎこちない。 「緊張してるの?」  百合は可笑しく思った。かつて甘い言葉も吐いた相手が、凍ったように固まっていたからだ。 「そりゃあねえ……」  信吾はまともに答えず、そう呟いた。 「え?」  思わず百合は訊き返す。  しかし、信吾は答えない。そして、その代わり、大きく鼻から息を吸い、たっぷりと時間をかけて口からふうっと吐いた。 「百合、頼みがある」 「花嫁が投げるブーケを必ずキャッチしろ、っていうのだったら聞かないわ。私が運動音痴なの知ってるでしょう?」  百合は笑いながら茶化した。  ところが、信吾は大真面目な顔を崩さない。 「式の途中で、俺を連れ去ってほしい」  その言葉を聞いた百合は呆れて大きなため息をついた。 「晴れやかな気持ちでお祝いもさせてくれないのね」 そして、小さくため息をつき、近くの椅子を引くと横に向け、腰を下ろした。そして、手で隣の椅子を指した。 「まあ、座って」  信吾は勧められるまま、百合の隣に腰を下ろした。しかし、背もたれには寄りかからない。むしろ前傾姿勢である。  信吾は真っ直ぐ百合の目を見て、ゆっくりと言葉を発し始めた。 「俺は本気だよ。実行のタイミングは誓いのキスの前。君はチャペル後方のドアを突然バンって大きな音を立てて開けるんだ」  手順の説明のところから、信吾の言葉は早くなって、熱がこもってきた。  ところが、残念ながらそれは百合に伝導しなかった。 「受けないわよ」  椅子に深く座っている百合は腕と足を組んだ。 「馬鹿げた話だもの」 「君は俺を嫌いになったの?」  信吾は椅子から落ちそうになるほど、浅く座っている。 「そうだったら、出席に丸はしないわ」 「じゃあさ」 「元恋人への感情は好きか嫌いかの二択じゃないでしょ」  百合は上目遣いで、信吾の目を見る。  ところが、一方の信吾の目は泳いでいた。 「まさか、未練があるの?」  百合はさらに呆れた。 「未練、っていうか」 「っていうか?」 「まだ好きっていうか」 「婚約したのよね? 式まで準備してさ」 「したよ。新居も建てたよ」 「あら、それは初耳。頑張ったわね」 「でもその引っ越しの準備中に、君とのアルバムが出てきたんだよ」  信吾は膝の上で拳を握った。 「いろいろな場所が写ってた。大きな観覧車のある遊園地。夏休みに行った温泉。大学入試の合格通知を見た俺の部屋。でも、初デートの映画館はなかったな」 「あのときはお互いに緊張しすぎて、ケータイを出すことすら忘れてたからね」 「そうそう。何だか楽しかったなあって、そのときは何となく思ってたけど、日が経つにつれて、あのアルバムのことばかり思い出してさ。気付いたら、結婚式の招待状を君に送っちゃっていたよ」  信吾の声は先ほどとは打って変わって、か細い。そして、いつの間にか、下を向いて足を閉じ、腕を突っ張り棒のように伸ばして、膝に手を突く格好になっていた。 「お相手の佳純(かすみ)さんは何か言われなかったの?」  百合は信吾の緊張を解くように、優しくゆったりとした口調でそう訊いた。  それに信吾は首を横に振って応えた。 「出したい人に出していいよって」 「ふうん。心が広い方なのね」  百合は椅子から少し腰を浮かせて、右腕から垂れたストールを反対側の手で押さえながら、お菓子を取った。そして、体勢を戻すとぺりぺりと袋を破き、お菓子を口の中に入れた。ザラザラした表面で、とても甘い。  百合は咀嚼して、お菓子を静かに飲み込むと、これまた立ち上がってテーブルの真ん中に置かれたペットボトルを手に取った。そして、蓋を開け少し口を付けると、指先でくるくると閉めた。 「でも、そう思っちゃう気持ちは分かるわ」 「え?」  百合の意外な言葉に、信吾は思わず顔を上げた。 「だって、“初めて”は特別なものだもの」  百合は当たり前、というような表情をした。 「まあ、これは恋に限らないけどね。それに、わたしたちの場合は、お互い、初恋で初めての恋人。“初めて”が二つ重なっているのよ。大事に決まってるわ。わたしだって、さっきあなたがアルバムの話をしたとき、楽しかったなあって思ったのよ。初デートで行った映画館で上映中に急に手を繋がれたときはドキドキしたし、遊園地の観覧車のてっぺんで突然プレゼントを渡されたときはキュンキュンしたわ。温泉旅行のときに見た浴衣姿は新鮮で惚れ直しちゃった。どれもあなたが感じたのと同じように、楽しくて美しかったわ」 「じゃあ……」  信吾は期待するように再び前傾姿勢になった。  しかし、百合は首を横に振って、ゆっくりとペットボトルをテーブルに置いた。ボンという音が部屋に響いた。 「でも、これはみんな過去なのよ」  百合は上目遣いで信吾を見た。 「そして、この過去は、現在や未来には繋がらない。過去は過去でしかないの」 「そんなことない。未来は分からないじゃないか」  信吾は前傾姿勢のまま、百合を強く真っ直ぐ見つめ、反論した。しかし、百合は動じない。 「そうかしら。少なくともわたしたちの過去は未来に繋がらないってことを認めた方がいい」 「何だよ、それ」  百合は軽く息を吸った。 「例えば、わたしが今ここであなたの馬鹿げた話を受け入れたとする。そうしたら、時間とお金をかけて準備した式や披露宴はどうなるの? 人生の一大決心をした佳純さんの立場や気持ちは? あなたはそれを全部ダメにして、わたしともう一度やり直す覚悟があるの?」  そう問う百合はもはや、信吾を睨みつけていた。  罪悪感。信吾の頭の中でその言葉が濃くなった。これは百合のことを思い出してから今日まで、ずっと頭の片隅にあった言葉だった。  高校生のときの俺には未来がなかったから良かった。映画館で手を繋いだ一瞬が、観覧車の頂上でプレゼントを渡した一瞬が、温泉旅行で彼女の浴衣姿を見た一瞬が幸せなら、その思い出はただ蓄積されていくだけだった。 しかし、婚約した今は、そのときとはわけが違う。俺には自らが約束した未来がある。今ここで百合ともう一度結ばれたら、一瞬は幸せかもしれない。ところが、その一瞬は、まるでオセロの駒みたいに、婚約までした佳純を裏切った罪悪感という真っ黒なものに裏返るのだ。そして、それは幸せの何十倍も重たい。果たして俺は、その重みに耐えられるのか。耐えてまで、彼女を取り戻したいのか。  信吾はふと膝の上に置いた左手に視線を落とした。薬指に嵌められた銀色の指輪が、大きな窓からの自然光を受けて光っている。それはまるで、判断を誤るな、と涙ながらに訴えているように感じた。  信吾はゆっくりと膝の上の手を握ると、すっと立ち上がった。 「百合。悪かった」  信吾は俯いたが、はっきりとそう言った。 「謝る相手を間違えないで」  信吾の顔を覗き込むように見た百合の口調は優しくなっていた。 「むしろ、この状況で頭を下げるのはわたしの方よ。要望に応えられなくてごめんなさい」  今度は百合が、座ったまま頭を下げた。 「やめてくれよ。おあいこってことでさ」  信吾は文字通り腰を低くして、百合の頭を上げさせた。すると、百合はすうっと顔を信吾の方に向けた。 「確かにそうね。そうだ、信吾、覚えてる? 二人で大学入試の結果を見た日」  百合が訊く。 「うん」  忘れているはずがない、と信吾は思った。あれは記憶している限り、最後のデートだったのだ。 「わたしたちの最後はあのときだったのかもしれないわね」 「そうかもな。でも、君の第二志望は俺が通った大学だっただろ?」 「ええ、そうよ。自分の夢に破れたら、あなたと一緒になろうと思ったのよ、若いわたしは。でも、無事第一志望に受かった。わたしたちの過去は未来に繋がらないものだったのよ、最初から」  そう寂しいことを言うと、百合は柔らかく笑った。  信吾は、何だか懐かしいな、と思った。笑った顔が十年前と全く変わらなかったのだ。本来、おっとりしていて大人な百合が、あのとき自分が好きになった百合が、タイムワープして来たみたいだ。  しかし、それはあのときアルバムを開いたときとは違った。スカっとしたような気持ちである。  十年越しに振られたんだけどな。 「ははっ」  信吾は思わず噴き出してしまった。  驚いた顔で百合はこちらを向いた。 「わたしの顔に何か?」  信吾は首を横に振る。 「あら、そう」  百合はもう一度笑った。  そのとき、ドアをノックする音が三回聞こえた。 「青木(あおき)様。新婦の新山(にいやま)様がお呼びです」  スタッフらしき声である。 「はい、分かりました。今行きます」  信吾は少し声を張ってそう答えた。 「じゃあ、俺行くね」  そう言うと、信吾はくるりと百合に背を向けた。 「ええ、式を楽しみにしているわ」  見送るため百合も立ち上がって、信吾のあとをついてった。 「そういえば」  急に信吾が立ち止まり、百合の方を振り返った。  内容の予測がまったくつかない百合は小さく首を傾けた。 「まだ佳純には会ったことないんだよな?」  信吾が尋ねた。 「ええ、ないわ」 「じゃあ、驚くだろうな。君の前で言うのも悪いけど、結構な美人だ。腰抜かすぞ」  信吾は顔の前に一本指を立てて、熱弁した。 「確かにわたしの前で言うことじゃないけど、あなたがそう言うんだから相当ね。楽しみにしてるわ」  百合はふふっと笑った。  信吾は体を出口の方に戻すと、ドアノブを握って、ゆっくりとひねった。そして、手前に引こうとした。 「信吾」  今度は百合が声をかけた。  信吾は「ん?」と、ドアノブを握ったまま顔だけ後ろに向けた。 「結婚、おめでとう」  百合はゆったりとした間でそう言うと、にっと笑った。 「ありがとう」  信吾も笑ってそう返すと、ドアを手前に引いて、部屋を出ていった。百合の目にはそれが、信吾が外の光に包まれていくように見えたのだった。
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