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キミを惑わす悪女。
『雪乃、一緒に登校しない? 今日、何だか落ち着かなくてさ……』
『うん、いいよ。わたしもちょっぴり悩みがあって、一人で登校するのが心細かった。凛久ちゃんの申し出は有難い』
『歩道橋で待ち合わせしない?』
翌日、神聖視されている木が全滅したという知らせが街中を駆け巡った。
新聞の見出しも前代未聞というフレーズで飾られた。私の行いが表彰されたような心地になった。
今朝は、家族の罵り合う声で目が覚めた。パパとママだ。どちらも顔を曇らせていた。ちょっぴり申し訳ない。
「ふふっ、妙案として離婚を勧めたらどうなるかな?」
世相は空の美しさとは正反対に淀んでいた。井戸端会議のおばちゃんたちは口吻を荒げて、旦那の悪口を語り合う。通りを行き交う学生の顔は意気消沈を隠せていない。
露骨な溜息が大気を白く染め上げる一方で、私の心は暗黒を根城に蠢いていた。
「快晴ね」
登校の折、空野昇と出くわした。隣に並び立って、しばらく無言の時間に浸る。
「清々しいくらい、空気が澄んでる。でも極寒~」
ダッフルコートに片手を突っ込み、利き手で缶コーヒーを啜る。甘口だ。
彼が応じてくれないので、まるで私が独り言を呟いているような構図になってしまう。ただ、それすらも心地良い。気まずさを肴にコーヒーを煽り、飲み干した。
「そうだ、な」
浮かない表情で虚空を見つめる少年。彼の精神状態は芳しくない。その予感は歯切れの悪い言葉によって裏付けられる。
「もしかして元気ない?」
「あー、わりぃ。気丈に振る舞ってたんだが…」
「いやいや、隠すつもりなんてなかったでしょ」
自嘲気味に昇は顔を歪めた。普段は子供っぽい彼の横顔に青年の苦悩を垣間見た。
「雪乃と喧嘩でもしちゃった?」
悪女は青年の耳に唇を寄せ、囁いた。悩みに先立って、口を抉じ開けるためだ。
誘導されていることにも気付かずに昇は不満を吐き出すだろう。
「凛久には、敵わないな。ズバリ、的中されてしまった。実のところ口喧嘩してしまってな……多分、俺が悪いんだろうな、とは…思う」
幼馴染の私を前にして取り繕わないで。言葉を濁してどうにかなる? ならないでしょ。
「…そっか」
しかし、行き場を見失った感情の整理を付けるのは至難の業。青少年には荷が重いだろう。
だから、私が手を差し伸べる。私だけが受け皿になってあげられる。
「高い所に登ろ。そしたら悩みなんてちっぽけに思るかも!」
——全部、曝け出してみよっか?
「歩道橋に登ったくらいの高さで何かが変わるとは思えないけどな」
世界の常識を覆す。その一歩を踏み出した。
「ほっ、ほっ、ふぅ……」
階段を駆け上がる。一段、二段と飛び越して振り返る。
少年と、その後ろに困惑した少女が立ち竦んでいた。
「ここまで来れるかな?」
挑発的に両手を広げて魅せる。まるで標本に囚われた蝶のような趣き。
けれど、私は蝶に擬態した蛾だ。蛇の目で二匹の蝶を威嚇し、睥睨する。蝶にはない異質さを蛾は纏っているので、雄は気になってしょうがなくなるのだ。
「朝から元気だな……凛久は。少し、救われたよ。お礼に、ご期待に添いますか!」
無邪気な青年の苦しそうな笑顔に心臓が高鳴る。ローファーが子気味良く段を叩いていく。
私と昇の距離が急速に近づく。雪乃と昇の距離が大きく開いた。
「お、進行妨害か? 真ん中に立たれてしまうと通行できな——」
「あー、我慢できないや」
立ち止まる少年のネクタイを強く掴んで引き寄せた。歩道橋で二人の男女の唇が重なり合った。
純愛に不純を混ぜる。口の中のコーヒーが徐々に薄く掻き消えていく。
「ん……ふぅ」
視線の先にいる雪乃の肩から鞄がずり落ちる。キスの快感に吞まれていても、目の端はしっかり世界の変革を捉えていた。
昇の背中に腕を回し、コートに皺が付くくらい激しい包容をして、ようやく満たされた。
「……ねぇ、私とのキスはどういう味がした?」
「は、なん…え?」
不安定な恋で揺れる男女。天秤のように傾いた心の隙間を縫って、囁く。
耳元に生温い息を吹きかけると、昇の肩がびくりと跳ねた。
——私にしなよ? まだ……物足りなかった?
紅潮した表情からは肯定も否定も読み取れない。ひたすらに困惑しているようだった。
「遅刻しちゃうよ? 学校、いこっか」
手を握る。あやとりのように指と指を絡め、密着させる。汗ばんだ彼の手はひんやりとしていた。
「あー、あー。逃げちゃったか」
雪乃の後ろ姿が遠ざかっていく。躓いて、転んで、立ち上がれなくなって、頭を抱えて、縮こまる。純真な心が悪意で蝕まれ、彼女は苦しみ喘ぐ。
そのまま二度と立ち直らないでほしい。昇を奪還されるのだけは勘弁。幼馴染は、希望だ。親しみも、方角を見失った恋心も、あわよくば私に向けてくれる。
青い空。雲一つない晴天。歩道橋を下ると、コバルトブルーの海がすぐそこに。
水平線を挟んで上が空、下が海。けれど、線はどことなく桃色を帯びている。
「そう、だよね。だから精一杯がんばるよ」
恋を募らせる灰は世界規模の現象。きっと海の向こう側は灰が降っている。所詮、私の悪行など小さなコミュニティを攪乱する程度の力なのだ。
植樹が近い将来、行われる。人々は今回のような事件を対策し、私の悪行は完璧に阻止される。次はない。そして再び花粉が拡散するようになったら、世界は元通りだ。
「学校、着いたね。私のこと、気になってくれた?」
雪乃と縒りを戻す、昇は見たくない。私に愛を囁く裏で雪乃への好きを積もらせていくのかな。やはり恋は仮初だ。
蛾を見破れるようになった時、昇は巣立つ。暗い密林を抜けて、明るい花畑を目指すだろう。これから積み重ねる恋が瓦解するのも遠くない未来の出来事だ。
それまで私は恋をする。不条理な世界で懸命に恋心を燃やす、女の子なんだ。
さよならを背に去る君を見送る日、恋を募らせる灰が降っている。
「私は昇のこと、ずっと好きだよ。四番目の彼女にしてくれる?」
だから、賞味期限切れになるまでは、せめて好きでいてほしいな。
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