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夜勤は客足が少ないからといって、けして暇なわけではない。忙しい日中にはできない点検や徹底した掃除、そして業者が次々と運んでくる商品を並べていかなければならない。これが言葉通りに腰の折れる作業で、下段では屈み、上段で立ち上がることを繰り返していると次第に錆が着いたように体の動きが鈍くなる。ゆっくりしていると店内のそこら中に商品の詰まったボックスであふれてしまうことになる。
晃が黙々と牛乳を奥に入れていると、入り口の開く音が鳴った。
「いらっしゃいませえ」と言いながらも心の中で舌打ちする。暇なときは来ないくせに何が引き寄せているのか、忙しくなると誰かが来店してくる。来店したお客さんはまっすぐレジへと向かったので、せっかく出した牛乳を一度棚に戻してレジに駆け寄る。
レジで待っていたのは二十代の女性だった。すらりとした体で目線は百七十五センチの晃とほぼ変わらない。紺色のマフラーから覗く鼻先がほんのり紅く染まっている。
「ホットコーヒーのエムサイズを一つお願いします」
「かしこまりました」
晃がカップを渡したときにかすかに触れた彼女の指は先ほどの牛乳よりも冷たく感じた。
「ありがとう」
短く感謝を述べた彼女は店の外に出る。去る間際に見せた微笑はどこか疲れて見えた。
すぐに陳列を再開しなければいけないけれど、晃は店を出ていく彼女の後姿を目で追っていた。普段はそんなことないのに、どうしてか気になった。
帰るかと思えば、彼女は店先で珈琲をすすっている。窓の外で時折頭が動いたり、小さく体を震わせたりしている。気が付けば晃の足は店の外に出ていた。
あの、と声をかけると両手でカップを持つ彼女が顔を上げた。
「もしよければ中で飲まれてください」
彼女は首を伸ばして晃の指す先の薄暗いイートインスペースを見る。今の時間、イートインスペースは鎖で隔たれている。
「使えないようだけれ――」
言い終える前に彼女が小さくくしゃみをした。
「自ら風邪をひきたいのであれば無理にとは言いませんが」
晃の皮肉に彼女は自然に微笑した。先ほど疲れ切ったものではなく、少女のようなかわいらしい笑顔に心臓が鳴る。
「ならお邪魔しちゃおうかな」
身を縮めた彼女とともに晃は店内に入った。
晃の隣で彼女は強張らせた肩の力を抜いておいしそうに珈琲を飲む。もちろん、深夜に勝手にイートインスペースを使うのも異例なことだが、そこに従業員も座っていることはだれが見てもよくないことだけはわかる光景だ。
晃は目の前で湯気の立つカップをしげしげと眺める。その様子に気づいた彼女はカップから口を離した。
「コーヒー嫌いだった?」
「いや、どちらかと言えば好きな飲み物です」
「だったら冷めないうちに飲んじゃったほうがいいよ。ホットコーヒーは熱いうちに飲むから美味しいんだから」
「ですが、まだ僕は労働の最中です」
顔を上げると、温まったおかげか行くから血の気の戻った彼女の顔がくしゃりと笑った。
「働いている人はコーヒーも飲んじゃいけないわけ? まるで昭和の部活動ね」
「別に休憩中でしたら構いません。でも、こうして堂々と飲むのは退けます」
「でも、君は私を中に入れてくれたじゃない?」
彼女は面白そうに晃の顔をうかがう。それを言われると返す言葉が見当たらない。自分でも大胆なことをしたと思う。一瞬でも冷静な自分がいたら彼女に声をかけることすらなかったであろう。晃は逃げるように視線をそらして代わりにくいとコーヒーを飲んだ。苦さの中にも深いコクと豊かな香りが広がってなかなか良い味わいだ。
「どう? 意外といけるでしょう」
コーヒーの美味さが無意識のうちに顔から漏れていたようで、彼女がぐっと身を寄せて先ほど同様いたずらな笑みを見せつけてくる。晃は平然と二口目に進む。確かに深夜の、しかも労働の最中に飲むこの黒い液体は体をささやかながら癒してくれる。ほっと一息をついた晃は話を変えた。彼女のペースに乗せられると危険な気がした。
「こんな夜に来るなんて、今日は仕事終わりですか」
「ええ、今日は当直でもないのにこの始末よ。ほら、三か月前からあそこで働いているの」
彼女が目で示す先には夜だというのに煌々と輝く黒い建物がある。この地域にしては割と大きい病院だ。
「お医者さんですか」
意外な職業に驚く晃を一瞥した彼女は肩を使って露骨に呆れていた。
「いま、すごいって思ったでしょ?」
補足した目でにらむ彼女を前に晃は小さく首を縦に振った。即座に「あのね」と彼女が体の向きを晃に向ける。
「大概の人が医者や教授のことを『すごい』で称するけれど、私たちがやっているのはあなたと同じ仕事の一つに過ぎないわ」
「それは違う気がします。扱う対象への責任が……」
「同じよ」と彼女はきっぱり言い切る。
「このコーヒー一杯の提供にしたってきちんと目的を持って仕事をすれば入院している患者さんと変わりはしないわ」
でも、と晃も食い下がる。彼女につられて感情的になってきているのが自分でもわかるが、止めることはできなかった。それは今の自分の悩みでもあったからだ。就職活動してしばらくすると、当然内定をもらう学生が出てくる。中には一流企業の、中には何社もの内定を取った人も晃の知り合いにいた。もちろん晃はその群衆に入ることができなかった。だらだらと面接を繰り返してはお祈りメールをもらって次の履歴書を送る。そうして夏の終わりにようやく一社から内定をもらうことができた。第一志望ではない、文具を売る中小企業だ。
その時、晃はほっとしたしうれしかった。これでようやくみんなと同じように来春から社会人になれる。あとは卒業をしっかりパスするだけだと意気込んでいた。しかし、しばらくして晃の中に不安とも言い難いわだかまりが胸のなかをふらつくようになった。
これから俺文具を売るのか。別に文具になんてこれっぽちも興味がないし、面接で答えたこともほとんどでまかせに近いものなのに、これから何年も文具を売り続けるのか。初めは周りをふらついていた不安は、いつしか晃の体をまとわり、喉元を締め付けようとする。
「やはりお医者さんはすごいと思います。コンビニのアルバイトはだれだってできますけれど、医者は限られた人しかできませんから」
「それは放棄よ」
涼しげな顔で鋭い言葉を放つ彼女に晃は多少ならずたじろいだ。
「たった一つ取り上げて、自分ができないから上だってそう思う? ほかのことを言えばあなたができて私ができないものが必ずあるのに」
彼女がふんと鼻を膨らませると、先ほどより白濁とした息が鮮明に見える。
「根本的に人をすごいかそうじゃないかで決めるのはナンセンスだわ」
ため息とともに彼女は「疲れてるわね」と目頭を押さえた。息巻く彼女を前に晃は口をはさむことさえできないでいた。ようやく口が開いたのはしばらく経ってのことだった。
「疲れているのであればすぐに布団に入って寝たほうがいいですよ。こんなところでアルバイトの大学生に不満をぶちまけるより、よっぽど体が休まります」
「そんなこともないわよ」と彼女はカップを傾けた。先ほどまでのとがった雰囲気が和らいで柔和な面立ちを見せる。
「時にはぼけっとしている学生との時間が、寝るよりも休息になるのよ」
「こちらは多大な心的疲労が蓄積されるのですが」
「聞き流すより蓄えられているだけ君はマシね」
くすりと笑う彼女はおもむろに立ち上がってカップをごみ箱に捨てる。そして、すっかり血色の戻った首にマフラーを巻きなおした。
「ありがとう。素敵な十分だったわ」
彼女の言葉に驚いてとっさに壁時計を探した。確かに十分程度針が動いていた。十分とは思えないほど濃密で不思議な時間だと思った。
彼女が扉を出る寸前、気づけば晃は呼び止めていた。背中を向けていた彼女が振り返る。特に言葉を決めていなかった晃は持っていたカップを上げて見せた。
「コーヒー、ごちそうさまでした」
彼女は一瞬止まって、ふとステップを刻むように軽やかに跳ねた。
「また寄らせてもらうわ。君との時間、悪くはなかったから」
言い終わると同時に自動ドアが閉まり、店内は一気に静まる。
手中にあるカップはまだほんのりと温かみを残していた。
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