蒼い蜜柑

3/11
前へ
/11ページ
次へ
 起床して身震いしてしまうのはこの時期の朝の決まり事と言っていもいい。 木造二階建てのアパートは冬の寒さをできるだけそのまま部屋に通してくれる。もちろん晃からすれば全くのお節介であり、迷惑でしかない。テレビ横の温度付きデジタル時計を確認すれば気温は一桁を表示している。数字を見て余計に凍寒が増すが、見ないと得体のしれない寒さに心も凍らされてしまう。それに一桁はまだ良いほうで、これからさらに冷え込んでくると考えただけで憂鬱になる。  温度の隣を見ればまだ昼前だ。薄いカーテンの隙間からは白い光が注ぎ込み、ささやかな温もりを感じる。  意を決して布団を剥がした晃はできるだけ床との接地面を減らすために足の指を折ってクローゼットを開ける。暖房の一つでもつければ早い話だが、できるだけお金をかけたくないのが学生というものだ。まずは靴下をはき、家にあるありったけの服を着こんでそれでも寒さに耐えられない場合にだけ炬燵の電源を入れる。一度、下宿先に遊びに来た母からは「修行僧じゃあるまいし」とあきれられたものだ。  着替えた晃は大きなあくびをしながら洗面台へと向かう。普段なら講義の入っていない曜日だが、今日は大学に行かなくてはいけないある用事がある。  顔を洗い、歯を磨いて寝ぐせもそこそこに晃は家を出る。澄み切った空だけを見上げれば気持ちは晴れやかになるが、横殴りに吹く風が体の底に吹き付ける。 「今日も冷えるなあ」  独り言をつぶやいて晃は重い足を前に動かした。  緩やかな坂の先にある大学に着いた晃は正門とは反対側のレンガ造りの建物の中にいた。かび臭い階段を四階まで上がって手前から三つ目の扉の前に立った晃は少し背筋を伸ばしてからノックをした。 「失礼します」  扉を開けると芳しい香りが晃の鼻孔をくすぐった。無数のファイルや蔵書が囲むようあに整理された部屋が途端に山奥の寺に思えてくる。  そんな奇妙な部屋の中央に腰を下ろしている初老の男性がゆっくりと顔を上げた。 「時間どおりだね」  彼は手に持つ湯呑をそっと口元に運んでするりと傾ける。その自然な行動はもはや玄人の域に達している。晃のゼミの教授でもある黒岩弥作は細い手で向かい側のソファを指す。晃は小さく頭を下げてから席に着いた。近くに来るとより香ばしさが際立つ。晃の視線に気づいた黒岩は微笑を浮かばせた。 「ほうじ茶は美容と健康に最適な飲み物と言われている。昔の人はほうじ茶が体に良いことを自然と感じていたのだろうね」  黒岩は美味そうに茶をすする。黒岩は学内でも有名な『茶人』であり、変人である。大講義でもゼミでも彼の傍らには必ず急須と湯呑がある。半分以上が興味を示さない学生に向けて講義をする最中、ふいにこぽこぽとお湯の注がれる音に皆夢かと起き上がる。晃も初めこそ驚愕したが、今では日常の光景の一つに過ぎない。 「それで、卒業論文は順調かね?」  茶を嗜む黒岩がふと声色を低くした。彼は茶人や変人と異名があるが、本来は切れ者の研究者である。教授が壇上でひとたび口を開けば、その朗々たる響きが胸にゆっくりじっくり流れてくる。まさにお茶に湯を注ぐかのような奇譚の時間だ。黒岩の醸し出す不思議な雰囲気に引き寄せられるように入ったゼミもすでに終盤に差し掛かっている。  先と変わらないまなざしの奥に鋭さを感じる。黒岩の目が晃の胸のいやなところを的確に見ている。そう感じた晃は避けるように視線を手前の湯のみに向けた。それが晃の答えだった。  しばらくの沈黙を破ったのは黒岩のほうだった。 「なぜ卒業に際して論文を書くと思う?」  ふいに切り替わった話題に驚きながらも晃は考えを言葉にする。 「四年間の集大成でしょうか。大学を卒業する資格があるのかどうか」  ふむ、と唸った黒岩は席を立ち、奥からポットを持ってきた。そしてポットに入っているお湯を急須に注ぎ始める。 「もちろんその理由はあるが、根本はそこではない」  蓋をした急須から視線を上げて黒岩は淡々と話し続ける。 「そもそも大学生の論文など大したものではない。たかが数か月、その上いやいや仕上げた論文が良質なわけがないのは明白だ。卒業したいのであればさせてあげよう」  穏やかな口調とは似合わず苛烈な言葉を放つ。柔和な顔からは冗談か本音かは判断しがたい。 「では、どうして論文を書かなければいけないのでしょうか」  質問が実に幼稚なことも理解したうえで、それでも晃は聞かざるを得なかった。最近悩んでばかりだ。 「最後の没頭できる時間だからだと、私は思う」  黒岩は急須からの香りを確かめたうえで湯呑に注ぐ。薄茶色の液体が音もなく流れ落ちていく。 「それはどういうことでしょうか」  頭が悪いのを承知で晃は問うた。一瞬視線を上げた黒岩はすぐに眼前の湯呑を見下ろす。 「大人とは存外に生きづらいということだ」  ふと微笑した黒岩はずずっと湯呑を傾ける。判然としないが、晃はそれ以上問わない。問うたところで返ってくるのは茶の感想くらいだろう。  タイミングよく後ろのドアからノックが聞こえた。新たな訪問者が来たようだ。 「失礼します」と部屋を出ようとする前に黒岩が呼び止めた。 「上手くまとめる必要はない。未熟なりに精一杯悩んで仕上げなさい」  またその言葉だ。もう十分に悩んでいるのに、いったいどこまで悩めば答えが出てくるのか。黒岩の言葉がとても遠くに聞こえた。  晃は一礼してドアを開けた。ドアの前に立っていた中年の女性に軽く会釈をしてから廊下を歩く。  まだ鼻の奥に芳しい香りが言葉とともに流れていた。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加