蒼い蜜柑

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 キムチの香りが夜半の目に染みる。  目頭を押さえる晃の隣で彼女が勢いよく赤みがかった麺を一気にすすり上げる。時刻は深夜一時五十分である。 「深夜に刺激物を食べたら肌荒れますよ」 「馬鹿ね」と頬を膨らませた彼女にばっさりと切り捨てられる。彼女とは例の女医である。 「体力をつけるのが最優先よ。それにあの白い巨塔の中で肌を気にしたところで来るのはほとんど七十以上、ともに仕事をするのは変人と変態のはざまをうろついている医者ばかりよ。まったくなんて環境だわ」  まだ口の中に残っていながらも箸の間にはすでにたっぷりのお湯を吸った中太麺が捕らえられている。確かに初対面の時も今日も彼女は化粧っ気のないすっきりとした顔をしている。口は幾分悪いが、彼女は毎日丹念に化粧をしてくる女学生よりも美しく見えた。  唇を赤くした彼女が自分の隣の席を引いて見せる。 「君も座ったらいいのに」 「この前は特例であって、流石に仕事はさぼれません」 「相方さんはぐっすり寝てらっしゃるようだけど」  彼女が遠目に見た先は事務室へとつながっている。扉はないのでそこから時折地鳴りのようないびきが響いている。 「僕は特に眠たくはないのでいいんです」 「ふうん」とさほど興味のなさそうに彼女は首を戻して窓外の景色を眺める。日中は温かくも感じたが、日が落ちるとともに空気が冷え込んだ。 「種田順平っていうんです」  晃は陶然と外を眺める彼女に聞こえないくらいの声量でつぶやいた。あることを知らない限り、特別不思議な名前ではないからだ。ほんの少し試しただけだが、前を見れば彼女が澄んだ茶色の瞳を見開いて、それから声の調子をいくらか下げて一節を口にした。 「小説中の重要な人物を種田順平という。年五十余歳、私立中学校の英語の教師である」  今度は晃が驚かされる番だった。黙って突っ立っている晃を横目に彼女がくしゃりと笑った。 「今時珍しいわね」 「あなたこそ。『濹東奇譚』を知っている人なんて周りにいません」 「あら、医者も小説くらい読むのよ」  彼女は空になったカップをごみ箱に捨てて立ち上がる。彼女が滞在するのはせいぜい十五分前後だ。 「私も一度目お目にかかりたいものね。『失踪』の主人公に」 「ああ、でも」と言っているうちに後ろからがたりと音がした。晃が振り返った先にはまだ半分夢の中に残っているような眼をこすっている種田さんが立っていた。すらりとした体を上から押しつぶして腹回りを引っ張った体をしている。つまり、ずんぐりむっくりとしている。種田さんを見た彼女は肩をすくめて見せた。 「とてもすみ子が惹かれた種田順平とは思えないわね」  じゃあ、と彼女は身をひるがえして闇へと向かう。 「ありざしたあ」  種田さんの野太い声に紛れて晃は苦笑した。
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