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彼女は毎日来るわけではない。無論、晃も毎日夜勤に入っているわけではない。彼女は月に一度、多くて二度程来店して、例のイートインスペースで一時を過ごす。一度許可をしてしまったのが晃からなので無下に断れない。種田さんが休憩中は良いものの、店内で仕事をされているときに彼女が来店するとひやりとする。構わず席に座ろうとする彼女をいかに帰らせるか、晃は頭を悩ますばかりであった。
悩みはそればかりでなく、佳境に迫った卒論の進捗状況が良くないことに晃は少なからず焦っていた。あれから特に黒岩教授から訊かれることはないが、訊かれないからと言って完成させなければ、流石に卒業認定の判は押してくれないだろう。それに教授の言った言葉が今まで晃の頭にこびりついてなおキーボードの上に置く指を固まらせた。
時期も流れて空がうら寂しくなってきた師走初旬。日中は一応図書館へ行って恰好だけは真面目な学生を装ってきた晃は、帰りにスーパーへ寄って白菜や冷凍の鳥団子を買って帰った。今日のシフトは入っていないので久しぶりに台所に立って鍋でもしようという気持ちになった。鍋に決めたのは一気に冬を迎えたからだが、論文から目を背けたいという気持ちのほうが強かった。
早めにご飯を済ませてシャワーを浴び、特に用事もないので布団をかぶった。途端に瞼が重くなる。大して頭を使っていないのに体は睡眠を欲していた。晃は手を差し伸べるように眠りについた。
熟睡の最中、突然電話が鳴り響いて晃は飛び起きた。暗い部屋の中で異様に光を放つ携帯電話に手を伸ばしてタップする。
「もしもし」
『やっと出た。稲田だけど』
「ああ、お疲れ様です」
晃は時間を確認したかったが、暗い部屋では夜ということしかわからない。しかも、電話の相手が滅多にかけてくることはない稲田さんとあって事情がつかめない。もしかしたらシフトの日を間違えたかとよぎったが、それは今朝店を出る前にきちんと確認していたからすぐに消された。だとすればなぜ稲田さんから? 晃の半ば眠っている頭では到底予想がつかなかった。
「どうされましたか」
『何度も電話かけたのに出ないからどうしようかと思ったよ』
稲田さんの声は興奮しているようにも聞こえる。稲田さんはその興奮状態のまま話し続けた。
『説明するのは面倒だから端的に言うぞ。彼女が倒れたんだ』
「はあ。稲田さんって彼女いましたっけ?」
受話器の向こう側でため息が聞こえた。
『ばか。例の彼女だよ。ほら、よくイートインに立ち寄っていくさ』
稲田さんの話が終わる前に晃は出しっぱなしになっていたコートをひっつかんで玄関を飛び出していた。
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