月子さん

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 あるはずのものがなかった。左手の手首から先が、アスパラガスの芽がボロリと取れるかのように、消えて失くなっていた。僕はミロのヴィーナスを思い出していた。はじめからそんな形をしていたみたいな顔をして、何の咎か、人の世界に再びあらわれた両腕のない女神の姿を。  真っ白なシーツの海で目覚めた。木々の梢にひそむ小鳥のさえずりが聴こえてくる、いつもどおりの朝だった。寝返りを打つと、隣にいつもの温もりはなかった。僕は眩しさに目を細めながら、広々とした寝室を見渡す。昨日の朝と変わらない部屋。白い壁にはオレンジを基調とした大きな曼荼羅が飾ってある。  月子さんはバルコニーへ続く一面のガラス戸の前に立って、ぼうっと外を見ていた。白い朝の冷気に包まれて、その姿はひと続きの石膏像のようだった。  足元から続く森と、その向こうに横たわる小高い山。ミズナラやヤマザクラの赤や黄色の葉が、ダークグリーンに彩りを添えている。二人ともこの眺めが気に入って、二階の寝室からちょうど眺められるように設計してもらったのだ。 「おはよう、月子さん」  月子さんは、こちらに視線を向けた。返事はなかった。彼女の纏う空気がいつもと違う気がして、僕はのそのそと起き出して傍に立った。真ん中で分けられた、肩まである清潔な黒髪を撫でる。  ほどなく、不自然に掲げられた左手の先に気がついた。棒のようになってしまった手の、非現実的なほど垂直の断面はきれいな皮膚で覆われていて、僕は触れようとしてためらった。 「痛くないの?」 「それがね、全然」  自分の身に起こっていることが全くわからない、そんな様子だった。 「昨日は指だけだったの。夢かと思って、一晩寝たら治っているだろうと思ったの」  月子さんは、言い訳するように呟いた。  痛がるふうもなく、手首の断面をじっと見つめていた。その眼差しは、温泉旅館で出された活き造りを見ていた時に、少し似ていた。高そうな有田焼の小鉢の中で、透明なイカの足が何かを探るように、もがいて宙を蹴っていた。  僕はちらりと時計に目をやった。今日は二限から宗教学概論と哲学思想史Ⅱの授業が入っていて、この山間の一軒家から職場へ辿り着くまでに、車でゆうに一時間半はかかる。 「行ってよ」事も無げに月子さんは言う。「でも」「大丈夫よ、学生たちを待たせないで」口元に笑みを浮かべて、きちんと手首から先がくっついている右手を、僕の肩に置いた。体温の低い青白い指先は、今日はことさらに冷たく、血が通っていることを忘れてしまいそうだ。  月子さんが大丈夫だという時は、いつだって大丈夫で、その宣言が覆されたことはなかった。 「お医者さんには行かない。信じてもらえないもの。ね、痛かったら必ず言うから」  月子さんは我が儘を押し通す少女のようにそう言って、頑なに家から出ようとはしなかった。  日中、教授室でパソコンを開き、世界中で同じようなーー手首が突然捥げる症状の病気が流行っていないか調べてみたけれど、そのようなニュースはどこにも載っていなかった。  先日から行方不明で大騒ぎになっていた小さな男の子は、森の中で蹲っていたところを無事に助けられた。雨水や川の水を飲んで凌いでいたらしい。遠い国では予期せぬ爆発事故が起こり、今日も見ず知らずの人間がわんさか死んだ。 「おかえりなさい」  いつもより早く帰ると、月子さんは紅茶を淹れているところだった。まだ夕食には早い。テーブルにはこんもりと、お手製の生成り色のティーコジーが熱を閉じ込めている。  もしかしたら、今朝のことは夢だったのかもしれない。そう思って左手に目をやったが、やはり手首は棒のようなままだった。 「あなたも飲む?」  月子さんは北欧の蚤の市で買ったカップとソーサをもう一セット戸棚から出してきた。右手で食器を掴んで、左で戸を閉める。ナイフとフォークを使うように左右を使い分けて、難なく二人分のお茶をカップに注ぐ。  目の前に紅茶を差し出しながら、月子さんは気遣わしげに僕を見た。 「平気よ?」  あなたのほうが深刻な顔してる、変なの。そう言いたげだった。右往左往しても仕方ないという月子さんの態度も正しいような気がする。僕だって不安を煽るようなことを言うつもりはなかった。  この時僕は、まだ楽観視もしていたのだ。忽然と消えて無くなったのだから、ある日起きたら突然もとに戻っているのではないかというような、根拠のない期待ではあったけれど。 「手がなくなってしまったように見えるでしょ。私もそう思った。でも違うみたい」 「どういうこと」  全く不可解だった。 「感覚が、あるの。左手を握ったり、指を触れ合わせたりすると、それを感じるの」 「まさか」  手は僕たちに見えなくなってしまっただけで、相変わらずここに存在するのだろうか。テーブルの上に投げ出された、月子さんの左手があったはずの場所に僕は手を重ねてみた。木の手触りがあるだけで何の感触もない。 「指ぱっちんしてみようか。音が聞こえるかも」  月子さんは冗談みたいに言うと、左腕を指揮棒のように軽やかに振った。 「……いま、鳴らしたの。聞こえた?」 「聞こえないよ」 「ほら、もう一度」  僕は虚空に耳をすました。月子さんは僕の間抜けな顔を見て、いらずらを成功させた子どものように笑った。僕は全然笑えなかった。  月子さんが感じているのは、偽物の触覚ではないのだろうか。手があった頃の記憶を体が覚えていて、あるはずのない信号を、脳がつくり出しているのではないだろうか。 「月子さん、」  突然、電話が鳴った。月子さんはリビングの端っこまで走った。 「もしもし? ああ、」馴染みの相手だったのか、声が気安くなる。 「坊や」「大きくなって」「可愛いだろうなあ」。  途切れ途切れに月子さんの朗らかな、慎ましい笑い声がする。でもどこかわざとらしい。月子さんに関することならば、僕は些細なことでも気づいてしまう。 「誰だった?」
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