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「幸子。久しぶりに会わないかって。お子さんも知らぬ間に大きくなったのね。四歳だって、驚いちゃった」
月子さんは、なみなみと注がれた紅茶のカップを右手で慎重に持ち上げ一口啜ると、ため息を吐いた。
「でも、会えないね。こんな手じゃ」
僕たちは大きな街で出会った。月子さんは服飾の専門学校を出たあと、友人の幸子と一緒に子ども服の手作りブランドを立ち上げて、小さな店を構えていた。出産祝いのために、ベビー用品を買いに立ち寄ったその店で、僕は彼女を見つけた。
商店が立ち並ぶ大通りから一本逸れると、住宅の合間にぽつぽつと個人経営の宝飾店やギャラリー、一風変わった古書店、天然酵母と石釜のパン屋などが続いている小道があって、僕はいつのまにかその通りへ迷い込んでいた。
白い箱のようなこじんまりとした三階建ての古ビルは、壁が半分以上蔦で覆われていた。一階は年季の入った骨董屋で、和食器や洋風の木の家具、カーペットなんかがひしめき合っている。吸い寄せられるように僕はそこへ入っていき、今は製造されていない緑のウランガラスのデザート皿だとか、長い時をかけて海を漂流してきた西洋の建築資材、江戸の大火事で半分溶けてしまった食器などという、およそ用途のわからない雑多な品を見聞して回った。
一番奥まった暗がりに、模造紙サイズの壁掛け図がかけてあった。布に顔料で細密に描かれた曼荼羅のような仏教画だった。観音様や閻魔大王や豆粒みたいな人の群れが、所狭しと描かれている。
「これ、いくらです」本を読んでいた店番の青年は、掛け図の裏表を点検して値札がないことに気づくと、どこかへ電話を掛け始めた。不在の店主に値段を聞いているのだろう。ほどなく通話を終え、予想していたより随分と安い値段を口にした。
「もっとするかと思ったよ」「廃寺にあったものですけど、たぶん有名な仏教画を模した、比較的新しいものだろうって」「そう」
僕は財布から千円札を数枚抜き取って、青年に渡した。
「家に飾るんですか」狭い店内で苦心して掛け図を丸めて、新聞紙で包んでくれる。「まだ決めてないよ。これは熊野観心十界図を参考にしたんだろう。大学で宗教学も教えていてね」「なるほど」
青年は頷くと、用は済んだとばかりにレジの椅子に座り、読書を再開した。
長い棒を小脇に抱えて店を出たところに、螺旋の外階段があるのが目に入った。入った時は気づかなかったが、登り口に銅色の看板が掛かっていて、二階にも店舗があることが見て取れる。繊細な文字で「fortune’s moon」と刻まれていた。店の名前は幸子の幸と、月子の月から取ったと後に聞かされたが、その時は場の雰囲気も相まって、往年の名曲のタイトルみたいな風情があった。
木の扉を押すと、店内が見渡せるほどの広さのなかに、女性が一人、カウンターに腰掛けていた。
コンクリートがむき出しの内壁や、蔦の影が揺れている曇りガラス。建物の古さを生かしたシックな内装だった。陳列棚には、商品が一つずつ間隔をおいて置かれていた。その間隔がとても空いているために、世界に一点しかない、とても高価な品物に見えた。どれもが、天人の羽衣のように白くふわふわとしていて、どうやって着せるのか分からないようなものもあった。
僕はひときわ大きな布の塊を、おそるおそる手に取った。透けるような軽い生地に、オーロラ色の透明なビーズが無数に縫い付けてある。
「それは赤ちゃんの晴れ着です」気づくと傍に小柄な女性が立っていた。
「……どういうふうに着るのかな」「ただ、被せるだけですよ。ほら、この穴から」彼女が服を捲ると、真ん中に穴の空いた、ひと続きの丸い蜘蛛の巣のような形状になった。
「朝露に濡れた蜘蛛の巣をイメージしています」触れればたちまちその形を失ってしまいそうな繊細な線の集まりを、彼女はそっと棚に戻した。
「これは、赤ちゃんの帽子。ハチドリの巣を、デザインの参考にしたんです。綿(わた)のお椀みたいな可愛らしい巣をつくるんですよ。誰に教えられたわけでもないのに、みんな同じようにつくるんです。本当に不思議」巣の可愛らしさを思い出しているらしい笑みを浮かべて、彼女はハチドリの生態を嬉しそうに語った。
ほっそりとした体格に繊細な顔立ち、手入れの行き届いた絹のような黒髪。しゃべれば快活で、まるで機敏なリスのよう。笑うと目尻にシワがよるのも好ましかった。
彼女には、夢中になっていることを他者に語ることのできる経験と、溢れ出る知識と、控えめな熱意が備わっていた。自分がなにに喜びを見出すかを心得ている大人の女性だった。好きなことについてーーこの世のあらゆる生きものについて話すとき、彼女は冒険好きの子どもが乗り移ったようになるのだった。
僕はハチドリの話より、彼女そのものの発する魅力にすっかり囚われてしまった。
月子さんと出会ってからの僕は、少々強引だったという自覚はある。店に足繁く通い、デートに誘った。付き合い始めたらすぐにプロポーズをした。
「あなたみたいなかっこいい人に口説かれたら、ひとたまりもないわ」あの頃が話題にのぼったときの、月子さんの口癖だった。その言葉はいつも、僕の自尊心を最高潮に高めてくれる。こんなに素敵な女性が、僕のために結婚を決めてくれたのだという満足感は、しばらく僕を幸福な回想の世界へ連れて行く。
たぷん、たぷん、ちゃぷちゃぷ。
ボートの底に小さな波が打ちつける音を聴きながら、月子さんは双眼鏡を当てて一点を凝視している。僕は肉眼でそれを捉えようと苦心して身を乗り出し、ボートはバランスを崩して、オールとボードがぶつかり合って大きな音を立てた。
あ、とテントウムシが転んだような声を上げて、月子さんは恨みがましく僕を振り返った。
「巣穴に戻っちゃった」
初デートで月子さんがやりたがったのは、郊外にある自然公園の池でボートに乗ることだった。なんでも野生の鳥が見られるとかで、月子さんは横綱級の双眼鏡を持参していた。
「何が巣穴に戻ったって?」
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