月子さん

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「ひなよ。見る? 巣の外に出て、飛ぶ練習をするの。また顔を出すと思う」 「やめとくよ」僕は投げやりに答えた。 「つまらなかった? 拗ねてるの?」  月子さんは揶揄うように笑って、あっさりと双眼鏡を仕舞った。「おしまい」月子さんはご機嫌をとるように僕の膝を撫でて、それきり僕のこぐボードに揺られながら水面に手をつけたりして遊んでいた。  月子さんは鳥を愛していた。動物を、虫を、木々や草花を、生きとし生けるものの自由さを愛していた。(だから動物園には行きたがらなかった。)  何回目かのデートで、山奥にムササビを見に行くツアーに参加したこともある。夕闇迫るころ、巣の下に陣取って寝袋を敷き、ムササビが巣穴から顔を出し、向かいの木へ飛び移るのをひたすら待った。 「いいよ。月子さんが好きなんだから僕は付き合うよ。だけどさ、どうしてムササビが飛ぶ一瞬のためにこんなに待てるのか、きみは本当にすごいよ」  僕は梢の先の、瞬く星を眺めながら言った。 「そういうときは、今ムササビがなにをしているか想像してみるの。今巣の中でムササビは生きているでしょ、家族と寄り添って寝ているかもしれないし、起きてふざけあっているのかも。とても愛おしくならない?」 「君がムササビを愛しているのはわかった。でもその想像力をちょっと別のことにも使ってほしいな」「例えば?」 「僕が何を考えているか想像してみるとかさ。ムササビに夢中で全然かまってくれないけど」月子さんは一瞬きょとんとして、可愛らしく破顔した。「しかたのない人」彼女は照れ臭そうに僕の頬にキスをした。  気まぐれなムササビを待っている間、僕らは小さな声で話し続けた。  僕たちの間に子どもはなかった。月子さんは四十手前だったし、僕はそんなこと一向に気にならなかった。むしろ二人でいられる時間が増えて嬉しいくらいだった。  でも月子さんは違ったのかもしれない。結婚して一年が過ぎた頃、月子さんのお腹にはほんの一時だけ命が宿っていた。命だったのかどうか、その豆粒みたいな小さな塊は心音を響かせる間もなく月子さんの体をすり抜けて、賽の河原まで流れて行ってしまった。跡形もなく消えてしまった束の間の子は、でも月子さんに何かをした。  この世の果ての白い岸辺に寄せるかすかな波音を、彼女は聴きつづけている、それ以来ずっと。そんな気がする。  同僚の幸子が身ごもったのはそのすぐ後だった。彼女は行方不明の夫を追って海外へ行くことを決め、fortune’s moonは片翼を失って宙ぶらりん状態になった。月子さんは、一人残された。 「そばにいてほしい。仕事から疲れて帰った僕を、迎えて欲しい」「家にいても服は作れるよ」そんな言葉で懐柔したのは僕で、店を手放したのは、彼女だった。  月子さんは一日のほとんどを家で過ごすようになった。夜マンションに帰ると、ある日は熱心に、ミシンで子ども服の前身頃と後ろ身頃を縫い合わせていた。着るあてのない子どもの服が少しずつ溜まっていくのを、僕はただ見ていることしかできなかった。  またある日は夕飯の支度も忘れて、分厚い昆虫記を抱え込んで読みふけっていた。とっくに日は落ちているのに部屋の電気は消えたままで、僕は君に何かあったのではとドキッとした。 「ベッコウバチがどうやって獲物を狩るか知ってる?」月子さんは文字を追いながら、興奮気味に尋ねた。「知らないよ」僕は部屋の電気をつけて回った。 「ベッコウバチはね、自分よりも体の大きなクモを巧みに巣穴から引きずり出して、臆病になったところを攻撃するんですって。刺すのは一箇所だけ。硬い節の間の中枢神経節に毒針を突き立てて、一瞬で体を麻痺させてしまうの。その獲物はね、ベッコウバチの子が幼虫のときに食べる大切な食料なの。だから、子どもが新鮮な柔らかい肉を食べられるように、決してクモを殺してしまわないんですって。生まれてきた幼虫も、それがわかっているのね。クモの脚の先から順に食べ進めていくの。クモが死んで肉が腐ったり、固くなってしまわないように」  僕は麻痺させられているクモのほうの気持ちになってしまって、一瞬身震いした。  ファーブル昆虫記なら一巻だけ、小さい頃実家の書棚にあった。その巻には確かフンコロガシのことが書いてあった。自分よりも大きなフンの塊をこしらえて、根気よく後ろ脚で転がしていくフンコロガシの姿が頭に浮かんだ。硝子細工のように光沢のある黒い背中に太陽の光が反射して、脚には大きな砂つぶが付いている。彼らも、そう。その大玉に卵を産み付けて、我が子が食べるに困らないよう、その仕事を寸分の違いなく完璧に遂行するのだった。昆虫記には虫たちの、奇跡のように複雑で緻密な仕事が記録されている。彼らの行動は一つ一つ決められていて、無駄な動きなどないのだ。  時折、神の手が邪魔をして、虫の行動が知性によるものなのか、それともあらかじめ組み込まれた本能によるものなのかを試す。結果はいつも同じだった。ただひとつの本能によって、彼らはこの世に生まれ出た時から死ぬまで、決められた手順に従って行動する。次の世代へ続いていく自分の分身のために、奴隷のように、自らの命すら捧げて尽くす。  人と虫は違う。本能に命令されるままに行動するわけではない。あらゆることを比較類推して、ときには立ち止まって、自分の行動を選ぶことができる。何をするか、何をしないか。  子を持つか、持たないまま生きていくかということさえ。  けれど僕はときどき考える、千切れそうなほど強烈に本能が支配する夜、僕が選んできたいくつかの、およそ理性ある人間らしからぬことについて。 「ハチって、すごく賢いハンターなのね」  ふいに月子さんは感想を述べた。その言葉に僕はひどく安心した。
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